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ガラテヤ人への手紙 4:3 - ALIVEバイブル: 新約聖書

私たちも同じように、かつては、その子どもたちのようなもので人の人生を支配する悪の力の奴隷だった。

この章を参照

Colloquial Japanese (1955)

それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。

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リビングバイブル

キリストが来られるまでは、私たちもそれとよく似た立場にありました。ユダヤ教の戒律や規則によって救われると考えて、その奴隷となっていたのです。

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Japanese: 聖書 口語訳

それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。

この章を参照

Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

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ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

私たちも同じようにかつてはその子供たちのようなもので、人の人生を支配する悪の力の奴隷だった。

この章を参照

聖書 口語訳

それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。

この章を参照



ガラテヤ人への手紙 4:3
20 相互参照  

イエスは続けた―― 「世の中の重荷を背負わされて疲れたなら俺のもとに来いッ! その重荷、俺が降ろしてやろう!!!


そこで、イエスを信じたユダヤ人に言った―― 「あなたがたが私の教えに従いつづけるなら、仲間だと認めよう。


さてさて、となるとなぜ、“あなた”に外国人イエスの従者の背に、重い負担をかける権利がある?神の判断が間違っていたとでも言いたいのか?我々どころかご先祖様たちでさえその負担を背負いきれなかったというのに・・・


掟は神の霊によって与えられたものだと私たちは知っている。 しかし私は弱く、1人の人間なのである。私は、過ちという主に、奴隷として売り渡されているからだ。


そこで私たちは、奴隷のように、いつもびくびく恐れる必要はもうないのだ。 神の家族の中に、子どもとしてあたたかく迎え入れられたのだから。 神の霊が私たちを実の子どもとし、神をアバと呼ばせてくれるのだ―― 【アバ:アラム語で小さな子どもがお父さんを呼ぶとき「パパ」のように使われる】


奴隷にされて、持ち物を奪われて、利用されて、いばられて、顔をひっぱたかれて、よく何もなかったかのように平気でいられるな。


イエスの信者といいながら実際、そうでない連中がいるからこそ、注意しなさい。 彼らはまるでスパイのように教会に馴染み、イエス・救世主に属すことで得た私たちの自由を、どうやったら奪えるか観察している。 私たちを奴隷のように従わせたいがために、なにが正しくてそうでないかと無駄に議論をしかけたがる。


ではそもそも、掟は何のために与えられたのか。人の過ちを知らしめるために与えられたのだ。 しかし掟は、アブラハムの子孫たる救世主が来るまでのものだったので、役目を終えた。この約束にある子孫は、神自身のもとからやってきた。 それと比べて掟は、神が天使を介し、天使はモーセを介し、人々に掟を与えたのだ。


つまり、父の定めた年齢に達するまでは、後見人や管理者に従う義務があるのだ―― 【当時、子どもは13歳から14歳ごろまで主人に仕える奴隷が面倒を見て、その後は親族が面倒を見ていた】


ところで、この実話は、神が人間を助けるために開かれた2つの道を示している。 1つは、掟を提示して、それを守るようにと命じた道。 神は、シナイ山でこの道を示した。このシナイ山を、アラビヤ人はハガル山と呼んでいいる。


このたとえでは、アブラハムの奴隷である妻ハガルが掟に従うことによって神に喜ばれようとする生き方の象徴、ユダヤ人の母なる都エルサレムをあらわしている。 そして、この生き方に賛同するユダヤ人は、すべてハガルが産んだ奴隷の子どもなのだ―― 【ハガルはアラビア語で、岩を意味する】


だから兄弟姉妹よ。 私たちは、掟に縛られた奴隷の子どもではなく、神への信頼によって神に受け入れられる、自由の女の子どもなのだ。


あなたがた外国人は、神を知らなかった時、実際には存在しない、神々と“呼ばれているもの”の奴隷だった。


ところが今は、神を知っているのに、というより、むしろ神に知られているのに、どうして、もとの悲惨な状態に逆戻りしたがる。なぜ掟を守って家族の一員になろうとする?すでに神の家族の一員なのにだ!


救世主と共に死に、それによって「規則を守って救われる」この世の縛りが解けたというのに、なぜ、


分裂を図る人の意見に流されることがないように。彼らの意見は、イエスからではなく、悪魔の手先である人間の伝統からきている。


あなたがたは、もう長い間イエスの信者として生きてきた。 もうほかの人を教えてもいいころなのに、もう一度、神のことばのイロハから手ほどきしてもらわなければならないほど、だめになっている。 まるで、固形物を食べるまでには成長していないので、いつもミルクばかり飲んでいる赤ん坊のようだ。


この新しい大祭司は、古い掟に属するレビ族からではなく、尽きることのない、生命からほとばしる力をもとに、立てられたのだ。