ヘブル人への手紙 12:2 - リビングバイブル あなたがたの信仰の指導者であり教師であるイエスから、目を離さないようにしなさい。イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられました。そして今は、神の王座の右に座しておられるのです。 ALIVEバイブル: 新約聖書 私たちの指導者であり教師であるイエスから、目を離さないように。 イエスは十字架の死のあとの喜びを知って、恥をもいとわず十字架にかかった。 そして今は、神の王座の隣、名誉ある座についているのだ。 Colloquial Japanese (1955) 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 Japanese: 聖書 口語訳 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書) 足を止めることはせず、ひたすらイエスを見るのだ!イエスこそ私たちのリーダー、信仰のリーダーだ!イエスによって私たちの信仰が完全なものとされる!イエスは十字架で苦しみ抜いたが、まるでそれを感じさせないようにその恥を受け止めた。それは十字架上でこれから来る素晴らしい光景を感じ取っていたからこそ、彼は喜んでいたのだ。そして今、イエスは神の右の王座に座っている。 聖書 口語訳 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 |
その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行くことと、そこでご自分の身に起こること、すなわち、ユダヤ人の指導者たちの手でひどく苦しめられ、殺され、そして三日目に復活することを、はっきり弟子たちに話し始められました。
メシヤのわたしでさえ、人々に仕えられるためではなく、みなに仕えるためにこの世に来たのです。そればかりか、多くの人の罪の代償として自分のいのちを与えるために来たのです。だからあなたがたも、わたしを見ならいなさい。」
イエスは、「まずエリヤが来て道を整えるというのはほんとうです。実際、エリヤはもう来たのです」とお答えになりました。そして、エリヤが預言どおり、人々からひどい仕打ちを受けたことを説明してから、「では、メシヤが多くの苦しみを受け、さげすまれると預言されていることは、どう考えますか」とお尋ねになりました。
よく言っておきます。畑にまかれる一粒の麦のように、わたしも地に落ちて死ななければなりません。そうしなければ、いつまでたっても一人のまま、一粒の種のままです。しかし、死ねば多くの新しい実が生じ、新しいいのちが豊かに実を結ぶことになります。
「イエス様は私たちを救うために死んでくださった」ということばが、滅びゆく人々にはどんなに愚かに響くか、私にはよくわかっています。しかし、救われた私たちは、これが神の力そのものであると認めるのです。
思いやりに満ちあふれた者となりなさい。キリストの愛は、あなたがたの罪を取り除くために、ご自身をいけにえとして神にささげるほど深かったのです。このキリストの愛の香ばしいかおりを、神はお喜びになったのです。
しかし、私たちのほんとうのふるさとは天にあるのです。そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。私たちは、キリストがそこから迎えに帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。
御子は神の栄光を受けて、まばゆいばかりに輝いています。また、その人格と行動すべてにおいて神であることを示し、力あることばによって万物を治めておられます。そればかりか、私たちのすべての罪の記録を消し去ってきよめるために死んでくださいました。そして今は、最高の栄誉を受けて、天におられる偉大な神のそばにいらっしゃるのです。
だから私たちは、町の外に出て〔この世の人たちの関心事から離れ、人々からさげすまれることも覚悟して〕、キリストのはずかしめを身に受け、共に苦しむために、この方のもとに行こうではありませんか。
だれも、祭司によっては神との正しい関係を結べなかったのです。しかし、今は違います。私たちは、もっとすぐれた希望を与えられています。キリストによって神に受け入れられた私たちは、神に近づくことができるのです。
キリストも、多くの人の罪のためにご自身をささげて、一度だけ死なれました。そして、もう一度おいでになりますが、今度は罪を取り除くためではありません。その時は、彼を待ち望んでいるすべての人の救いを完成させるために来られるのです。
心の中のキリストの御霊が何を語っておられるのか、理解していませんでした。聖霊は、やがてキリストの身にふりかかる苦難と、それに続く大きな栄光とを書きとめるように命じられたのです。彼らは、いったいそれが、いつ、だれに実現するのか知りませんでした。
キリストも苦しまれました。罪を犯したことのない方であったにもかかわらず、私たち罪人のために死なれたのです。それは、肉においては死んでも、霊においては生かされて、私たちを神のもとに導くためでした。
こう語りかけました。「わたしは初めであり、終わりである。これからあなたの目に映ることを書き記し、アジヤにあるエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤの七つの教会に送りなさい。」
それを見た時、私はその足もとに倒れて、死んだようになりました。しかしその方は、私に右手を置いて、こう言われたのです。 「恐れてはいけない。わたしは初めであり、終わりです。死んでのち復活し、今は永遠に生きる者となり、死と地獄とのかぎを持っています。