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ヘブル人への手紙 12:2 - ALIVEバイブル: 新約聖書

2 私たちの指導者であり教師であるイエスから、目を離さないように。 イエスは十字架の死のあとの喜びを知って、恥をもいとわず十字架にかかった。 そして今は、神の王座の隣、名誉ある座についているのだ。

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Colloquial Japanese (1955)

2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

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リビングバイブル

2 あなたがたの信仰の指導者であり教師であるイエスから、目を離さないようにしなさい。イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられました。そして今は、神の王座の右に座しておられるのです。

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Japanese: 聖書 口語訳

2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

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Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

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ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

2 足を止めることはせず、ひたすらイエスを見るのだ!イエスこそ私たちのリーダー、信仰のリーダーだ!イエスによって私たちの信仰が完全なものとされる!イエスは十字架で苦しみ抜いたが、まるでそれを感じさせないようにその恥を受け止めた。それは十字架上でこれから来る素晴らしい光景を感じ取っていたからこそ、彼は喜んでいたのだ。そして今、イエスは神の右の王座に座っている。

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聖書 口語訳

2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

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ヘブル人への手紙 12:2
78 相互参照  

「俺はこれからエルサレムへ行かなくてはならない」 それいらいイエスはこれから起こることを仲間に打ち明け始めた―― 「ユダヤ指導者、祭司たち、そして掟の学者たちによって多くの苦しみの中をくぐらされ、俺は彼らに殺されなければならない。そして3日目に死から蘇る!」


“この人”のように。 “この人”は仕えられるためではなく、『仕えるために来た』!!! その命と引き換えに多くの人を救うために!!!」


「はぁはぁ・・・アバ、あなたにできないことはない・・・。俺がこの苦しみの杯を飲まなくても、すむようにしてほしい・・・が、俺じゃあなく、アバの思いのままにしてくれ・・・・・・」―― 【アバ:アラビア語で父】


「彼は犯罪者と一緒に置かれた」という聖書の言葉が実現したのだ。―― 【ギリシャ語の写本の中には、28節を付け加えているものもある】


イエスは一味にこれらのことを語り終えると―― ブオーン・・・・・・ 天に引き上げられ、神の右の座にこしをすえたのである。


「あぁ、確かにまずエリヤが来て全てを“改める”。だが、重要なのは、聖書になぜ、“この人”が大きな苦痛をとおり、人にさげすまれるとあるかってことだ。


「し、信じますとも!どうか、不届き者である私がもっと信じられるように、助けてください!!!」


とある日―― 「俺たちの信仰を強くしてくれ!!!」 熱い眼差しでイエスに詰めよる十二使徒。


――「ダァッハッハッ!これはいい!!お似合いだ!!!」 ヘロデ王とその兵士は、王に似せてイエスにド派手なガウンを着せてバカにした。散々笑ったあと、ピラト総督のもとへ送り返した。


『救世主が栄光に輝く前にそれらの苦難を通る』とあるじゃあないか!」


翌日―― 洗礼者ヨハネは、自分のもとへ向かってくるイエスを見ると言った―― 「見よ!世の過ちをぬぐいさる神さんの子羊でやんす!!!


畑にまかれる1粒の種のように、俺も地に落ちて死ななければならない。 そうしなければ、いつまでたっても、1人のまま、1粒の種のままだ。 だが、死ねば、多くの新しい実が生じ、新しい生命が豊かに実を結ぶことになる。


俺が上げられた時、すべての人を俺に引き寄せよう」


イエスは、父なる神が自分をすべての万物の上に立たされたことを知っていた。また、自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることも知っていた。それらすべてを知ったうえで、


誰であれ、一人子を見て、信じて従う者には永遠の命がある!彼らをこの世が終わる日に生き返らせること。 これぞ、父さんの意志!!!」


あなたがたの先祖アブラハムは、私が来る日を今か今かと待ちわび、実現した今は大喜びしているところです」


イスラエルの民が知るべきことはこうだ・・・。あなたがたが十字架にかけてしまったイエスこそが神に選ばれし王なのだッ!!!」


そうやっておまえたちは命の創始者イエスを殺してしまった・・・だがな、幸いにも神が蘇らせた!!この目で見た俺たちが証人だ。


そして、名誉ある神の右の座へイエスを座らせ、天地を統べる救世主とされた!!過ちを改め、神に立ち返って赦される機会をイスラエル中の人へ与えるために、神はこうしたんです!


「いてて・・・ひでぇツラだな兄弟!」 「いやいや、おまえこそ!つ゛ッ・・・」 「ははは・・・!」 イエスの為に取った行動で罰せられたことを使徒たちは最高の名誉として心に刻み、傷だらけの体に満面の笑顔を浮かべて議会を後にしたのだった。


「イエスは私たちを救うために十字架で死んでくれた」 ということばが、滅んでゆく人たちにはどれほどバカらしく響くか、私にはよくわかっている。 しかし、救われている私たちは、これが神の力そのものであると認めるのだ。


それで、人を救うために十字架で死なれた救世主についてみなに話すと、ユダヤ人はそれを受け入れることはせず、ユダヤ人でない人たちはナンセンスだ、と言う。


私たちはイエスの十字架の死によって、対立していた2つのグループが一つの体となり、神と和解でき、両者間の憎しみを取り除いた。


愛を生き様にするのだ。救世主が私たちを愛したように人を愛すのだ。 人生を私たちの為に捧げてくれた救世主の愛。 この愛は神を喜ばせた捧げものだった。 その匂いはなんと甘いことか。


みんなの間で良い働きを始めた神は、それを成長させ続け、やがてイエス・救世主が戻る日に、有終の美を飾ってくれると信じている。


しかし、私たちを治める政府は、天にある。我々が帰りを待つ救世主、王・イエスはそこにいる!


そのため、勝者への褒美が私を待っている。 それは、私が神に認められていることを象徴する冠。 完全であり、完璧な裁判官である王・イエスが、最後の審判の日に与えてくれるのだ。 私だけでなく、イエスの帰りを心底楽しみにしている人全員に!


神が天使に、次のようなことばを、かけたことがあるだろうか。 「🎼己の敵、己の足下へ完全にひれ伏す日まで、 私の右に座れ」―― 【聖書:詩篇110:1より引用】


神の一人子は、神の微笑みを浴びながら、まばゆいばかりに輝き、その人格と行動すべてにおいて、神であることを示している。 さらには、力あることばによって、宇宙を統べている。 そればかりか、私たちのいっさいの過ちの記録を消し去るべく、死んでくれたのだ。 そして今は、最高の栄誉を受けて、天にいる偉大な神のそばに、座っているのだ。


救世主は、この一度かぎりの行為によって、自分がきよめる人をみな、永遠に神の目からも完全なものとしてくれたのだ。


時には、汚名を着せられ、おおやけで顔に泥をぬられた。 また時には、同じ修羅場をとおる同志を助けた。


またある人たちは、あざけられ、むち打たれ、さらに鎖につながれ、投獄された。


気力を失い、弱り果てることがないように、いつも、罪人の恐ろしい仕打ちと侮辱を耐え忍ばれた、イエスのことを思っていなさい。


だから私たちは、町の外に出てこの世の人たちの関心事をあとにし、人からさげすまれることも覚悟のうえで、イエスのはずかしめを身に受け、共に苦しむために、この方のもとに行こうではないか。


この体験を通し、自分の完全さを証明し、その上で、自分に従うすべての人に永遠の救いを与える者となったのだ。


問題は、モーセの掟では誰も完璧になれなかったことにある。 しかし、今は違う。私たちは、遥かに勝る希望を与えられた。 イエスのおかげで、堂々と神に近づけるのだ!


ここまで書いてきたことを要約すると、次のようになる。 私たちの大祭司はイエスであり、現在、天で神の次に名誉ある地位についている。


救世主も、多くの人の犯した過ちのために自身を捧げ、一度だけ死んでくれた。 そして、次は、人間の過ちを取り除くためではなく、彼を待ち望む人を救うためにくるのだ!


兄弟姉妹よ。 栄光に輝く我らの王なるイエス・救世主を信じているなら、 相手を金持ちか貧しいか、身分が高いか低いか、そんな計りでえこひいきし、態度をがらりと変えてはならない。


内にいた神の霊が、自分を通して何を語っているのか理解しようと預言者は努めた。やがて救世主の身にふりかかる苦難と、それを乗り越えた後の栄光について書きとめたはいいが、書いた本人ですら、いったいそれが、いつ、どのように実現するか、分からなかった。


罪を犯した人類のため、無実の救世主は、一度死の苦しみを味わった。 それもこれも、人類を神に導くため。 人として死んだが、彼の魂はすべてを超越する神の魂。 死さえも制して生き返った。


今、イエスは天で、神の右に着座し、すべての天使軍と、権限、権力を従えている。


我らの王なるイエス・救世主の情けから与えられる永遠のいのちを手に入れるまで、神の愛という名の安全地帯に身をおいたまま、


こう語りかけた。 「これからあなたの目に映ることを、1つ残らず巻物に書きとめ、この7つの教会にメッセージを送りなさい―― 【当時の書物は巻物だった】 港の都エペソ、 都市スミルナ、 都市ペルガモ、 都市テアテラ、 都サルデス、 都市フィラデルフィヤ、 都市ラオデキヤ」


それを見た時、その足もとに倒れて、私は死んだようになった。しかし彼は、私に右手を置いて、こう言ったのだ。 恐れるな。わたしは初めであり、終わりだ。


今も昔も存在し、やがて戻る我らの王なる全知全能の神が、こう言っている。 「私は、アルファであり、オメガだ」


都市スミルナにある教会の指導者に、次のようなメッセージを送りなさい。 ――メッセージ―― 初めであり、終わりであり、死んで、復活した方より


私たちに従ってください:

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