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エペソ人への手紙 2:9 - ALIVEバイブル: 新約聖書

救いは、私たちの良い行ないに対する報酬ではない。だから、だれ1人、それを手柄として誇ることはできない。

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Colloquial Japanese (1955)

決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

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リビングバイブル

救いは、私たちの良い行いに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。

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Japanese: 聖書 口語訳

決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

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Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

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ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

あなたがした行動によって救われたのではない。だからこそ、救いについてあなた達は何1つ自分自身を自慢することは出来ないはずだ。

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聖書 口語訳

決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

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エペソ人への手紙 2:9
9 相互参照  

しかし、それは神の恵みのおかげであり、彼らが善良だからではない。 そうでなければ、ただであるはずの贈り物が、もはやただでなくなってしまう。 かせいで手に入れるのであれば、ただとは言えない。


さて、もうわかっただろうか? 掟の命じることを実行し、神に正しい者と認められようとしても無駄なあがき。 私たちが神の掟を知れば知るほど、自分がどれだけ守れておらず、ダメなのかが明らかになるだけだからだ。神の掟はただ、私たちの自己中さを自覚させる。


彼が神に受け入れられたのは、良い行ないをしたからだろうか? もしそうなら、彼は自慢できたはずだ。 しかし、神の目から見ると、アブラハムには、自慢する理由などみじんもなかった。


それはまだ、こどもらが生まれる前であり、善い事も悪い事もする前の出来事だ。


したがって、神からの祝福は、だれかがそれを得ようと決心したからとか、そのために努力したからとかで、与えられるようなものではない。 それは、神が情けをかけたいと思う人に与えられるものなのだ。


神は私たちを救い、神の民としてその聖なる仕事に任命してくれた。 それは、私たちにその資格があったからではない。 何もかも、この世が始まる前から、神によって決められていたことなのだ。 神はイエス・救世主を通してその恵みをわたしたちに示そうと計画してくれていたのだ。