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コリント人への第二の手紙 3:7 - リビングバイブル

けれども、死に通じる、石板に刻まれた文字による方法(出エジプト31・18)も、初めは輝かしい栄光をおびていたのです。その栄光のまばゆさに、イスラエルの人々は、モーセの顔をまともに見られないほどでした。従うべき神の律法を示した時のモーセの顔は、神の栄光そのもので光り輝いていたからです。――もっとも、その輝きは、やがて消え去る運命にあったのですが。

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ALIVEバイブル: 新約聖書

だが、死に通じる古い掟も、初めは輝かしい栄光をおびていた。 その栄光のまばゆさに、神の国の人たちは、モーセの顔をまともに見れないほどだった。 従うべき神の掟を示した時のモーセの顔は、神の栄光そのもので光り輝いていたからだ。 だが、その輝きは、やがて消え去る運命にあった。

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Colloquial Japanese (1955)

もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、

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Japanese: 聖書 口語訳

もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、

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Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、

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ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

神に仕える上で、石の板に書かれた方法で示した旧いやり方は、死だけをもたらした。しかし、それでもその方法は神からの栄光を運んでいた。事実、モーセの顔は栄光と共にとてもまぶしく、一時的な輝きであってもイスラエルの人々は彼の顔を見続けることが出来ないほどだった。

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聖書 口語訳

もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、

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コリント人への第二の手紙 3:7
38 相互参照  

神はアダムと妻エバに、動物の皮で作った服を着せました。


また、天からシナイ山に下り、良いおきてとまことの律法をお示しくださいました。


ああ主よ。私はあなたの救いを慕い求めてきたのです。 あなたの教えはこの上ない喜びです。


どれほど私が、そのおことばを愛していることか。 一日中、そのことばかり思い巡らしているのです。


神はモーセに告げました。「山に登り、わたしのもとに来なさい。そこで待ちなさい。わたしが石に記したおきてをあなたに授けよう。あなたはそれにより人々を教えることができる。」


こうして神は、シナイ山でモーセと話し終え、彼に二枚の石板を与えました。その板には、神の指で書かれた十戒が記されていました。


野営地に近づくと、子牛の偶像と踊り狂っている人々の姿が目に入りました。それを見たモーセは怒りがこみ上げ、思わず石板を地面に投げつけ、山のふもとで砕きました。


主はモーセに命じました。「前と同じ石板を二枚用意しなさい。あなたが割った板に書いたのと同じことばを、もう一度その板に書こう。


この時、議会にいた者は、いっせいにステパノに目をやりました。すると、彼の顔は、天使のように輝いていました。


彼らが律法(旧約のおきてや戒律)を守ることによって手に入れようとしているすべてのものを、キリストはご自分を信じる人々に与えてくださいます。キリストは、律法を終結なさったのです。


しかし実際、律法を守ることによって神の祝福と救いとを得ようとしても、結局は、神の怒りを招く結果に終わるだけです。律法を破らないためには、破るような律法を持たないようにするしかありません。


律法が与えられてから、すべての人は、自分がいかに神のおきてに従えない存在か、よくわかるようになりました。しかし、私たちは、自分の罪深さを知れば知るほど、赦してくださる神の満ちあふれる恵みが、いっそうわかるようになるのです。


それで、私にとって、本来いのちの道を示してくれるはずの戒めが、かえって死の罰を科すものになってしまいました。


新しい性質をいただいた私としては、神のご意思どおり行いたいのですが、


私たちの古い性質がまだ生きていた時には、欲望が私たちの中で思うままにふるまい、神の命令に逆らって、罪深い行いという死に至る腐った実を結びました。


しかし、私たちが完全な存在とされる時、これら不完全な賜物は不要になり、消え去ってしまうのです。


あなたがたそのものが、私たちが書いた「キリストからの手紙」であり、それはペンとインクではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心に刻み込まれた手紙です。


神様は私たちが、人々を救う新しい契約について、人々に知らせることができるように助けてくださいました。それは、「神の律法(おきてや戒律)を全部守れ。さもないと滅びるぞ」と教えているのではありません。「御霊が新しいいのちを下さる」と教えているのです。「モーセの十戒」を守って救われようとする、古い方法の行き着く先は死です。しかし新しい方法によれば、御霊からいのちをいただけるのです。


とすれば、御霊がいのちを与えてくださる、この今の時には、はるかにすばらしい栄光を期待できるのではないでしょうか。


律法の行いに頼って救われようとする者は、神にのろわれます。なぜなら、聖書には、「神の律法の書にあることばを一つでも破る者は、のろわれる」(申命27・26)とはっきり書いてあるからです。


だとすると、神の律法と約束とは、互いに対立するのでしょうか。そんなことはありません。もし私たちが律法によって救われることができたのであれば、それで事はすんだはずです。罪の力から逃れるための、別の道が開かれる必要などなかったのです。


そこで主は、行うべきこととして十戒をお示しになり、それを二枚の石板に記されました。


どんなに偉大な国でも、今日私が教えるような正しいおきてと定めをもつ国はありません。


暗雲の垂れ込めるシナイ山でこれらのことばを、主は炎の中からあなたがた一人一人に告げられました。主はそれを二枚の石板に記して私に下さいました。


私は石板をしっかりかかえ、燃える山を一目散に駆け下りました。


あなたがたは、イスラエルの民たちがシナイ山で神から律法(十戒)を授けられた時のように、恐怖、燃えさかる火、黒雲、暗闇、たけり狂う嵐に直面しているわけではありません。


しかしイエスは、モーセよりはるかにまさった栄光をお受けになりました。豪華な家よりも、その家を建てる人のほうが賞賛されるのです。


至聖所には、金の香壇と、全面を純金でおおわれた契約の箱がありました。その箱には、「十戒」を記した二枚の石の板、マナを入れた金のつぼ、芽を出したアロンの杖が納めてあったのです。