その日には、イスラエルにもユダにも、罪は一つも見当たらなくなる。わたしは残った者たちを赦すからだ。
神は私たちの罪を取り除き、 はるか地平線のかなたに投げ捨ててくださいました。
神は私を調べて、 正しいことを確認してくださいました。 神は夜中に来られましたが、 不正は何一つ見いださず、 私が真実を語ってきたことを認められました。
こうして、神の激しい怒りは、 きれいに消え去りました。
もし天の軍勢の主が介入して、 わずかに生き残った私たちを救ってくれなかったら、 私たちはソドムやゴモラ(悪行のために神に滅ぼされた町)の住民のように 全滅していただろう。
全能の神に立ち返るのです。
イスラエルの民は二度と、 「病が重く、頼るものもない」とは言いません。 主が彼らの罪を赦し、彼らを祝福するからです。
わたしは自分のために、あなたがたの罪をぬぐい去り、 それを二度と思い出さない。
わたしは、あなたの罪をすっかり消した。 それは、昼になると朝もやが消えてなくなるように、 影も形もなくなった。 さあ、わたしのもとに帰って来なさい。 あなたを自由にする代価は支払いずみだ。」
その時はもう、主を知るようにと互いに忠告する必要はなくなる。身分の高い者も低い者も、だれもがわたしを心底から知るようになるからだ。わたしは彼らの罪を赦し、忘れる。」
その時、わたしはダビデの真実の子を王にする。彼は正義をもって支配する。
彼らのすべての罪をきよめ、赦す。
ここに来たことを悔い、ほかの者と別行動をとって故国に帰る者のほかは、ただの一人も、わたしの憤りから逃げることはできない。』」
その時、イスラエルとユダの民は泣きながら、彼らの神であるわたしを尋ね求める。
イスラエルは罪を犯して遠い国へ移されましたが、 刑期はやがて終わります。 しかしエドムの刑期は、いつまでも終わりません。
過去の罪はすべて忘れられ、彼は善行のために生きる者となる。」
再び、私たちにあわれみをかけてくださいます。 私たちの罪を踏みつけ、海の底に投げ込まれます。
残された者は貧しく謙遜な人々で、主の名に信頼する。
彼は、ヨシュアがそのかたわらに立っている神殿の礎石となり、わたしはその上に七回、「わたしは一日で、この地の罪を取り去る」と彫りつける。』
ですから、すっかり心を入れ替えて、神に立ち返りなさい。そうすれば、神様は罪をきよめてくださいます。
神様はご自分の子であるイエスを復活させると、真っ先にあなたがたイスラエル人のもとに遣わされました。あなたがたを罪の生活から立ち返らせ、祝福なさるためです。」
しかし、それは神の恵みによるのであり、彼らの行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなってしまいます。
つまりアダムの一つの罪が、多くの人に死の罰をもたらしました。一方、キリストは、無償で多くの罪を取り除き、その代わりにすばらしいいのちを下さるのです。
体のどんな部分をも、罪を犯す道具にしてはいけません。むしろ、自分自身を神にささげなさい。あなたがたは、死者の中から生かされた者であり、神に使っていただく良い道具として役立つ者となりなさい。
なぜ主が、こんなにも長く待っておられるのか考えてみなさい。主は、私たちが救いを伝える時間を与えておられるのです。学識の深い、愛する兄弟パウロも、多くの手紙の中で同じことを書いています。しかし彼の手紙はむずかしいところがあるので、中には的はずれの解釈をする者がいます。彼らは、聖書のほかの箇所もそうですが、パウロが言おうとしていることとは全く別の意味を引き出し、自分で滅びを招いているのです。