『主よ、あなたの懲らしめは益となり、 いのちと健康に導きます。 どうか病気を治し、私を生かしてください。
私は失望のあまり、ちりの中にはいつくばっています。 おことばによって、生き返らせてください。
あなたから懲らしめを受けたことは、 この上ない幸いでした。 私はそのおかげで、 おきてに目を向けることを学びました。 このおきてこそ、金や銀より価値あるものです。
ああ主よ。私はあなたが正しい決定と罰を 下すお方であることを知っています。 どうか、お約束のとおり、優しく慰めてください。 あなたのあわれみで包んで、生かしてください。 あなたの教えこそ、私の喜びなのですから。
墓の入口から、連れ戻してくださいました。 おかげで、こうして生きることができます。
どうかこのいのちをお助けください。 死ぬ前にもう一度、元気になりたいのです。 喜びに満たされたいのです。
あなたは私に難題を与え、 苦しみもがくようになさいました。 しかし、あなたは地中深くから私を引き上げ、 再び生き返らせてくださいます。
神は、喜んで正しいことを行う者、 神につき従う者を喜んで迎えてくれます。 ところが、私たちは神を敬わず、 一生罪を犯し続けています。 そのため、神の怒りが重くのしかかっているのです。 このような者が、どうして救われるでしょう。
しかしイエスは、お答えになりました。「いいえ。聖書には、『人はただパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(申命8・3)と書いてある。わたしたちは、神のすべてのことばに従うべきなのです。」
けれども、私たちが主にさばかれ、懲らしめられるのは、この世の人々といっしょにさばかれないためです。
今の私たちの苦しみや悩みは、結局のところ、取るに足りないものであり、それほど長くは続きません。そして、このつかの間の苦しみは、永遠に尽きない、あふれるばかりの神の祝福をもたらすのです。
ひもじい思いをさせたのも、謙遜を学ばせるためでした。なぜならそのあとで、マナという見たこともない食べ物を下さり、人はただパンだけで生きるのではなく、神の命令を守ることによって真に生きるのだということを教えてくださったからです。
この世では父親が子どもを罰しても、子どもから尊敬されなくなるようなことはありません。だとしたら、私たちは真に生きることを学ぶために、喜んで神の訓練を受けるべきではないでしょうか。