私には、こう申し上げるほかありません。 『あなたのことはずっと前から聞いていましたが、 今私は、あなたをこの目ではっきり見たのです。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、 今はわたしの目であなたを拝見いたします。
あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、/今はわたしの目であなたを拝見いたします。
こんなことは神にすればほんの小さなことで、 御力がかすかにささやいただけにすぎない。 まして、神が大声を出したとしたら、 だれがそれに耐えられるだろう。」
だが、滅びと死は、 『知恵のことなら少しは知っている』と言う。
神はこのような方法で、 人の耳を開き、知恵と訓戒を授け、
耳もとのささやきのように、こっそりと、 ひとつの真理が私に伝えられた。
私は、つくづく自分がいやになり、 ちりと灰の中で悔い改めます。』」
ウジヤ王の死んだ年に、私は主を見ました。主は高い御座に座っていましたが、神殿は栄光で満ちあふれていました。
私は恐ろしくなって、思わず叫びました。 「もうおしまいだ。 口の汚れた罪深い民に属する口の汚れた私が、 天の軍勢の主である王を見てしまったのだから。」
主よ。 今、私は、あなたのうわさを聞きました。 あなたがしようとしておられるみわざを知り、 恐れをもって礼拝しています。 この非常時に直面している私たちを、 再び、昔のあなたのようにお助けください。 あなたの力を示してください。 御怒りの中にも、あわれみを忘れないでください。
いまだかつて、実際に神を見た人はいません。しかし、神のひとり子だけは別です。御子は父なる神といつもいっしょですから、神について知っていることを教えてくださいました。
この預言は、イエスのことを指しています。イザヤは、メシヤの栄光の幻を見て預言したのです。
わたしを見る人は、わたしを遣わした方を見るのです。
信仰は、キリストについてのことばに耳を傾けることから始まるのです。