「主をほめたたえよ。 イスラエルの指導者が雄々しく先頭を行くと、 民は喜んで従った。 そうだ、主をほめたたえよ。
第三の指揮官であるジクリの子アマスヤは、とても信仰のあつい人で、二十万の兵を率いていました。
志願してエルサレムに住む人もあり、そういう人たちは称賛されました。
私は主をほめたたえます。 あなたがなしてくださった数々のすばらしいことを 私は決して忘れません。
あなたのご威光が輝き渡ると、 民はきよい祭服をまとって、 喜んでやって来るでしょう。 あなたは朝露のように、日々新しい力を帯びられます。
敵であるエジプト王の軍隊はおぼれてしまいました。 イスラエルへの神の恵みは、絶えることがありません。
神は私に害を加える者に報復し、 目の前の国々を制圧してくださいます。
エルサレムとユダヤの人々は喜びなさい。 最後には、あなたがたも 正当な扱いを受けるようになると、 神が保証しておられます。
復讐の神である主よ。 あなたのご栄光を輝かせてください。 地上の人々をさばき、 おごり高ぶる者どもを罰してください。
主よ。エルサレムとユダの町々は、 あなたの公正な判決を耳にし、喜びにわいています。 主の威厳に満ちた支配が全地に行き渡り、 他の神々ははるか足もとにも及ばないのですから。
もし、自分から進んでこの務めを引き受けたのであれば、主は私に特別な報酬を下さるでしょう。しかし、そうではなかったのです。神様が私を選び出して、この聖なる任務につかせてくださったのであって、選ぶ自由などなかったのです。
ささげる熱意がほんとうにあるなら、いくらささげるべきかは問題ではありません。神様は、持っていないものまでささげるようにとはおっしゃいません。
ただし、いくらささげたらよいかは、各自が決めるべきです。自分はこれだけささげようと思っている人に、もっとたくさんささげるように強制してはいけません。神様にとっては、喜んで与えるかどうかが大事なのです。
異教の国民よ、神の国民をたたえよ。 神は彼らのかたきを討ち、 御国と民をきよめられたから。
彼は最良の土地を見つけました。 指導者となる者の土地です。 こうして人々の先頭に立ち、 イスラエルのために主からの刑罰を下すのです。」
神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いができるように助けてくださるのです。
しかし、あなたの同意なしに、そんなことはしたくなかったのです。あなたがしてくれる親切はむりじいされてではなく、心から喜んでするものでなければなりませんから。
しかし、天よ、神の子どもよ、預言者よ、使徒よ。彼女の最期を喜びなさい。ついに神は、あなたがたのために、彼女にさばきを下されたのです。」
その審判は正しく、真実だからです。神は、不品行によって地上に悪をはびこらせた、あの淫乱な女を処罰し、神に仕える者たちが殺されたことに復讐されたのです。」
喜んで自らをささげるイスラエルの指導者たちの姿に、 どれほど私は喜んだことか。 主をほめたたえよ。