本来、律法は霊的なものであり、問題はむしろ罪ある私にあります。私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているのです。
一方、エジプトに着いた隊商は、ヨセフをエジプト王に仕える役人ポティファルに売りました。ポティファルは侍従長という立場にある宮廷の役人で、監獄の責任者でした。
私はもともとヘブル人ですが、さらわれてここに来たのです。そして、無実の罪で投獄されてしまったのです。」
アハブに会いに来たエリヤを見て、王は、「また悪い敵に見つかってしまった」と言いました。エリヤは答えました。「王が悪魔に身を売り渡したので、主ののろいを下すために出て来たのだ。
アハブのように悪魔の言いなりになった者は、ほかに一人もいませんでした。妻のイゼベルが王をそそのかして、あらゆる悪事に走らせたからです。
また、息子や娘さえ焼き殺してモレクの祭壇にささげ、占いやまじないに走り、悪の限りを尽くしたのです。こんなことをしていて、主の激しい怒りを買わないわけがありません。
私は、つくづく自分がいやになり、 ちりと灰の中で悔い改めます。』」
私は失望のあまり、ちりの中にはいつくばっています。 おことばによって、生き返らせてください。
あなたがお喜びになるのは、 徹底した正直さです。 ああ、そのことを私に心底わからせてください。
ただし、昼間であれば殺人とみなされ、有罪となる。どろぼうして捕まった場合は、損害を全額弁償しなければならない。できなければ、奴隷として身を売ってでも弁償する。
私は疲れ果て、今にも死にそうです。 そのうえ、人間の資格さえないような愚か者です。
神のことばはすべて真実で、 神は頼ってくる者をみな守ってくださいます。
主はこう尋ねます。 「わたしはあなたがたを 債権者に売り飛ばしただろうか。 そのため、あなたがたはここにいないのか。 わたしがあなたがたの母親と離婚し、 追い出したから、彼女の姿が見当たらないのか。 いや、あなたがたは自分の罪のために 捕虜となって行ったのだ。 母親も借金のかたに連れて行かれた。
主はこう語ります。「捕虜としてあなたがたを圧制者どもに売った時、わたしは彼らに何の代価も求めなかった。だから今度は、あなたがたを無償で取り戻す。
私は恐ろしくなって、思わず叫びました。 「もうおしまいだ。 口の汚れた罪深い民に属する口の汚れた私が、 天の軍勢の主である王を見てしまったのだから。」
ツァラアトが足の先から頭の先まで全身に広がっているのがわかったら、
それがあとで白く変わったら、祭司に見てもらう。患部が完全に白く変わっていたら、祭司は「きよい」と宣言する。
復讐してはならない。人を恨んではならない。むしろ、自分を愛するように人を愛しなさい。
主はこう言います。 「イスラエルの民は何度もくり返して罪を犯し、 わたしはそのことを忘れない。 もうこれ以上、処罰を猶予しない。 彼らはわいろを取って公正な裁判を曲げ、 借金を返せない貧しい者を奴隷に売ったからだ。 それも、たったのくつ一足分の代金のために。
しかし、イエスはふり向いて、「サタンよ。下がれ。そのようなことを言って、わたしをわなにかける気ですか。あなたは人間的な見方をして、神の見方を忘れている」とおしかりになりました。
その男は借金を返すことができなかったので、王は、自分や家族、持ち物全部を売り払ってでも返済するように命じました。
しかし、わたしはさらにこうつけ加えましょう。人に腹を立てるなら、たとえ相手が自分の家族であっても、裁判にかけられます。人をばか呼ばわりするなら、裁判所に引っぱり出されます。人をのろったりするなら、地獄の火に投げ込まれます。
しかし、だれでもみだらな思いで女性を見るなら、それだけでもう、心の中では姦淫したことになるのです。
シモン・ペテロは、あわててイエスの前にひれ伏し、「先生。どうぞ私みたいな者から離れてください。私は罪深い人間で、とてもおそばには寄れません」と叫びました。
そこで、イエスは長老たちといっしょに出かけました。家まであとわずかという時、隊長の友人たちが来て、彼のことづけを伝えました。「先生。わざわざおいでくださいませんように。とてもそんな名誉を受ける資格はございません。自分でお迎えに上がることさえ失礼と存じます。どうぞ今おられる所で、おことばをください。それで十分でございます。そうすれば、召使は必ず治ります。
それでは、私たちユダヤ人は、ほかの人々よりすぐれているのでしょうか。決してそんなことはありません。すでに指摘したように、ユダヤ人であろうと外国人であろうと、みな同様に罪人です。
私たちの中にある古い性質の自分が、キリストと共に十字架につけられたのは、罪を愛する体が砕かれ、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。
古い罪の性質のために、私は自分が腐敗しきっているのを知っています。正しいことを行いたいのに、どんなにもがいても、できないのです。
キリストが来られるまでは、私たちもそれとよく似た立場にありました。ユダヤ教の戒律や規則によって救われると考えて、その奴隷となっていたのです。
私はそのような資格の全くない者で、クリスチャンの中で最も役立たずの人間です。それにもかかわらず、キリストのうちにある無限の富が外国人にも与えられるという計画を伝える者として、こんな私が選ばれたのです。
だから、心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くして主を愛しなさい。
神のことばは生きていて、力があります。それは鋭い刃のように切れ味がよく、心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの赤裸々な姿をさらけ出します。