そういうわけで、律法がユダヤ人に重くのしかかっています。なぜなら、彼らは律法を守る責任があるのに守らず、こうした悪にふけっているからです。彼らのうち一人として、申し開きのできる者はいません。事実、全世界が全能の神の前に沈黙して立ち、罪の宣告を受けているのです。
こうして、貧しい者は希望を見いだし、 悪者の牙はへし折られる。
正しい人々はそれを見て喝采を送り、 悪者どもは貝のように堅く口を閉ざさざるをえません。
しかしこの私は、神に抱かれて 喜びにあふれます。 神に信頼する者は歓声を上げ、 うそつきどもは、黙り込むのです。
あなたの今までの行いにもかかわらず、わたしは思いやりを示す。わたしがあなたの行った悪のすべてを赦すとき、あなたは恥じ入って口をつぐむだろう。」神である主が、このように語るのです。
こうして、『彼らは理由もなしにわたしを憎んだ』(詩篇35・19、69・4)というメシヤについての預言は、そのとおり実現しました。
すると、ユダヤ人の指導者もパリサイ人も、ばつが悪そうに、年長者から順に一人去り二人去りして、とうとうイエスと女だけが、群衆の前に取り残されました。
世界が創造されてからこのかた、人々は、天地や、神がお造りになったすべてのものを見て、神の存在とその偉大な永遠の力をはっきり知っていました。ですから、彼らには弁解の余地がありません。
もちろん、ユダヤ人であることには多くの利点があります。まず第一に、神はユダヤ人にご自分のことばをおゆだねになりました。それは、彼らに神の御心を知らせ、それを実行させるためでした。
すべての人は罪を犯したので、神の標準にはほど遠い存在です。
絶対にそんなことはありません。たとえ世界中の人がうそつきでも、神は真実な方です。このことについて詩篇には、「神のことばに誤りはない。だれが疑いを差しはさもうと、いつも真実で正しい」と書いてあります。
それでは、私たちユダヤ人は、ほかの人々よりすぐれているのでしょうか。決してそんなことはありません。すでに指摘したように、ユダヤ人であろうと外国人であろうと、みな同様に罪人です。
ですから、どこのだれであっても、神の前で誇ることはできません。
律法の行いに頼って救われようとする者は、神にのろわれます。なぜなら、聖書には、「神の律法の書にあることばを一つでも破る者は、のろわれる」(申命27・26)とはっきり書いてあるからです。
律法を守らなければ救われない、と考えている皆さん。私のことばに耳を傾けてください。どうして律法のほんとうの意義を理解しないのですか。
それは、律法の奴隷になっていた私たちを買い戻して自由の身とするためであり、神の子どもとして迎えてくださるためなのです。
しかし、本来聖霊に導かれているあなたがたは、もう自分を律法に従わせる必要はありません。
主は信仰者を守られます。 しかし、悪者は暗闇に葬り去られます。 だれも自力でははい上がれません。