彼らは、それを喜んでしてくれました。エルサレムのクリスチャンには大きな借りがあると思っているのです。どうしてかわかりますか。福音がエルサレムの教会から伝えられたからです。彼らはエルサレム教会から、福音というすばらしい霊の贈り物を受けました。そこで、いくらかでも物質的な援助をして恩返しができればと願っているのです。
私たちの罪をお赦しください。 私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。
ところが、アブラハムの子孫という、オリーブの木の幾枝かが折り取られ、そして、いわば野生のオリーブの木の枝であった外国人のあなたがたが、それにつぎ木されました。それで今、あなたがたも、神がオリーブの木に注がれる、特別に豊かな滋養分にあずかって、アブラハムとその子孫とに約束された祝福をいただいているのです。
本来、律法は霊的なものであり、問題はむしろ罪ある私にあります。私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているのです。
私たちはあなたがたの心に、良い霊の種をまきました。とすれば、そのお返しとして食べ物や着る物を求めるのは行き過ぎでしょうか。
神のことばを教えてくれる人には、報酬を払い、援助しなさい。
私が支払います。その保証として、自筆でこの箇所をしたためています。私の助けがあって今のようなあなたになれたという、あなたの私に対する借りについては何も言いません。