あなたがたの父となり、 あなたがたはわたしの息子、娘となる。」(ホセア1・10、イザヤ43・6)
アブラムが九十九歳になった時、主が彼に現れました。「わたしは全能の神である。わたしの命令に従って正しく生きなさい。
「全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、祝福してくださった時のことは、今でもはっきり覚えている。
わたしが父となり、彼が息子となる。もし彼が罪を犯せば、外国人を用いて罰する。
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。サウルのように、恵みと愛を取り去るようなことはしない。
私たちの子どもも主に仕えます。 私たちが、主のすばらしさを語り伝えるからです。
わたしは、おまえたちがわたしの子らといっしょにこの地にいるのは、どんなにすばらしいことかと考えていた。おまえたちに、世界で一番美しいこの国の一部を与えようと思っていた。また、おまえたちがわたしを「父」と呼ぶ日を待ちわび、おまえたちが二度とわたしから離れないと考えていた。
その時、イスラエルの全家族はわたしを主と認める。彼らは、わたしの民としてふるまうようになる。
だれの頬にもうれし涙がこぼれる。 わたしは彼らを、 壊れ物を運ぶように注意して連れ帰る。 彼らは静かに流れる川のほとりを歩き、 つまずくことはない。 イスラエルにとってわたしは父であり、 エフライムはわたしの長男だからだ。」
そして、神がお造りになったすべてのものが、神の子どもたちの復活を忍耐と希望をもって待ち望んでいます。
というのは、神はあらかじめ、ご自分のもとに来る人を知っていて、そのような人々がご自分の御子と同じになるように、最初から定めておられたからです。それは、御子イエスを多くの主を信じる者たちの長子とするためでした。
私たちはみな、すでに、イエス・キリストを信じる信仰によって神の子どもとなったからです。
神の御心は、イエス・キリストを遣わし、その死によって、私たちを神の家族の一員として迎えることでした。
今も昔も存在し、やがて来られる全能の主なる神が、こう言われます。「わたしはあらゆることの初めであり、終わりである。」(イザヤ41・4)
それにしても、都には、どこにも神殿が見あたらないのです。というのも、全能の神である主と小羊とを、都のどこででも、自由に礼拝できるからです。
勝利を得る人はだれでも、すべての祝福を相続できるのです。わたしはその人の神となり、その人はわたしの子どもとなります。