こんなイメージが浮かびます。神様は私たち使徒を、死罪の判決が下された捕虜のように凱旋行列の最後に引き出し、人々や天使の前で見せ物にされたのだ、と。
ところが私たちは、あなたにお従いしているばかりに、 常に死の恐怖にとらわれています。 まるでほふり場に引かれて行く羊のようになっています。
あなたの強力な守りのおかげで、 私は人々が目をみはるほどの成功を収めたのです。
どうして、私は生まれて来たのだろう。 悩みと悲しみと恥ばかりの一生だったのに。
たちまち町中は大混乱に陥りました。人々は、パウロに同行したガイオとアリスタルコの二人をむりやり引っ立て、円形劇場へなだれ込みました。
パウロの友人であるこの地方のローマの役人たちも使いの者をよこし、危険だから中に入らないようにと言ってきました。
聖書にこう書いてあるとおりです。 「神のためには、いつでも 死ねる心がまえでいなければならない。 私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」(詩篇44・22)
もしクリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はありません。
彼らはキリストに仕えていると言うのですか。しかし、私はもっと仕えてきました。こんなに自慢をする私は、気でもおかしいのでしょうか。 私の労苦は彼らの比ではありません。投獄されたこともかなりの回数に及び、むち打たれたことは数えきれず、何度も死に直面しました。
この世から無視されても、私たちは神に認められています。死に直面しながらも、このとおり生きています。傷つけられたこともありますが、死を免れてきました。
天使は、救われる人々を助けるために遣わされた、霊の使者なのです。
時には、あなたがた自身があざけられたり、打ちのめされたりし、また、同じ苦しみを味わっている人たちの友となったりしました。
またある者たちは、あざけられ、むち打たれ、さらに鎖につながれ、投獄されました。