こうした日々が与えられる人、 それは、神の前に立ち、 ヤコブの神を拝むことを許された人だけです。
常に主を求め、御力を慕い続けなさい。
私たちの子どもも主に仕えます。 私たちが、主のすばらしさを語り伝えるからです。
「ここに来なさい。話をしよう。」 この御声を、私の心は聞きました。 そして、こう答えます。 「主よ、参ります。」
もし、本気でこう口にしたら、 私は神の民を裏切ることになったでしょう。
彼を傷つけ、悲しみで満たすのは、 主の計画だったのです。 罪の赦しのためのささげ物として、 そのたましいをささげるとき、 彼は多くの子孫を見ることができます。 彼は復活し、 神の計画は彼の手によって成し遂げられます。
ナタナエルも行ってみる気になりました。イエスは歩いて来るナタナエルの姿に目をとめておっしゃいました。「この人こそ生粋のイスラエル人です。正直で、うそがありません。」
そういうわけで、神の祝福は、無償の贈り物として、信仰によって与えられるのです。ユダヤ人の慣習に従うか否かに関係なく、アブラハムと同じ信仰を持っているなら、神の祝福を確実にいただけるのです。信仰の面から言えば、アブラハムは、私たちすべての者の父です。
しかし、あなたがたはそうではありません。あなたがたは神から選ばれた王なる祭司であり、きよい民として神のものとされた人たちです。それはすべて、どうして自分が暗闇から神の驚くべき光へと招き入れられたかを、人々に語り伝えるためなのです。