夫は妻の立てた誓いを認めることも、無効にすることもできるが、
さていよいよ、私はアハワ川のほとりで断食を命じ、一人一人が神の前に謙虚になるよう勧めました。そして、これからの道中の無事と家族や持ち物の安全を神に祈りました。
彼らが病気の時、 私は彼らを治してやってくださいと 神に泣いてすがりました。 そのために食を断ち、ひたすら祈り続けました。 しかし、神はお聞き入れになりませんでした。
そんな罪滅ぼしが何だ。 風に揺られる葦のように頭を下げたり、 荒布をまとって灰をかぶったりすることを、 はたしてわたしが望んでいるだろうか。
これから命じることは、あなたがたが永遠に守るべきおきてである。毎年第七の月の十日(太陽暦では九月二十四日)は何の仕事もせず、謙虚に自分を反省する日としなさい。イスラエル人も共に住む外国人も区別はない。この日は、すべての罪が赦され、神の目から見てきよい者と認められる、罪の償いの日だからだ。
その日は神聖な安息日だから、謙遜に罪を悔い改めなさい。前日の夕方から、当日の夕方まで丸一日、身を慎んで過ごしなさい。
その十日後に、もう一度、すべての民が集まって聖なる集会を開く。その日は、どんな仕事も休み、身を慎んで静かに過ごさなければならない。
しかし、聞いた日のうちに『認めない』と言えば無効である。そして、妻も罰せられない。
その日のうちに何も言わなければ、同意したことになる。
しかし、知っておいてほしいことが一つあります。それは、妻は夫に責任があり、夫はキリストに責任があり、キリストは神に責任がある、ということです。
最初の男アダムは、エバのために造られたのではなく、エバがアダムのために造られたのです。
ですから、互いにこの権利を拒んではなりません。ただ一つの例外があります。ひたすら祈りに専心するため、二人が合意の上で、一定の期間、夫婦生活から離れる場合です。そのあと、二人はまたいっしょになるべきです。それは、自制力の弱さにつけ込むサタンの誘惑を避けるためです。