アブラムは主を信じました。主はアブラムの信仰を義と認めました。
さらに、この忠実なアブラハムと契約を結び、子々孫々に至るまで、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の地を与えるとお約束なさいました。そして、今、そのお約束は現実となっているのです。神様はご自分のことばを裏切るようなことはなさいません。
このピネハスの適切な処置は歴史に残ることでしょう。
アブラハムが割礼を受けたのは、神が彼をその信仰のゆえに祝福すると約束された時より、もっとあとのことです。割礼を受ける前に、アブラハムはすでに信仰を持っており、神はすでに彼を受け入れ、ご自分の目から見て正しい者、義なる者と認めておられました。割礼はそのしるしだったのです。こうしてアブラハムは、ユダヤ教の規則に従わなくても、信じて救われるすべての人の父とされています。ですから、これらの規則を守っていない人々も、信仰によって神から正しい者と認めていただけることがわかります。
すると、次のような質問が出て来ます。この祝福は、キリストを信じた上に、さらに割礼をはじめユダヤ教の規則を守っている人にだけ与えられるのでしょうか。それとも、ユダヤ教の規則は守らなくても、ただキリストを信じてさえいれば与えられるのでしょうか。アブラハムの場合はどうだったのでしょう。「アブラハムは信仰によってこれらの祝福を受けた」と言われています。それは、ただ信仰だけによったのでしょうか。それとも、ユダヤ教の規則も守ったからなのでしょうか。
つまり、キリストによって、この世をご自分と和解させ、その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです。これが、人々に伝えるようにと私たちにゆだねられた、すばらしい知らせです。
アブラハムも、神を信じました。神に、生まれ故郷を離れて新しく与える地に向かうようにと指示された時、彼はそのことばに従い、行く先も知らずに出て行ったのです。
ですから、「アブラハムは神を信じた。それで神の目に正しい者と認められた」(創世15・6)という聖書のことばどおり、彼は、「神の友」と呼ばれるまでになったのです。