ところがナボテは、「どんなことがあっても、お譲りするわけにはまいりません。あそこは先祖伝来の土地なのです」と答えました。
「それは許さん。杯を盗んだ者だけが奴隷になればよい。ほかの者は国の父のもとへ帰れ。」
彼らも黙ってはいません。「ばかばかしい。ひどい話じゃありませんか。とんでもない言いがかりです。われわれを何だと思っているのですか。
あなたたちの言い分が正しいとは絶対に認めない。 最期の息を引き取るまで、 私は身の潔白を主張し続ける。
また、君主は力ずくで人の土地を取り上げてはならない。その子には自分の土地を与えなければならない。わたしの民が土地を失って、追い出されるような事態になることをわたしは望まないからだ。」
土地はわたしのものだから、それを永久に売り渡してはならない。あなたがたは任されている者にすぎないのだから。
それなら、土地が他の部族に移ることもない。相続地はいつまでも、最初にくじで決めたとおりのままにしておかなければならない。
こうすれば、相続地が他の部族のものになる心配はない。」
それでは、信仰によって救われるのなら、もはや律法に従う必要はないことになるのでしょうか。いや、全く違います。私たちはイエスを信じてこそ、ほんとうに神の命令に従うことができるのです。
絶対にそんなことはありません。たとえ世界中の人がうそつきでも、神は真実な方です。このことについて詩篇には、「神のことばに誤りはない。だれが疑いを差しはさもうと、いつも真実で正しい」と書いてあります。
それは全く違います。罪を見過ごすような神があるでしょうか。そんなことで、神はどうして人をさばくことがおできになるでしょう。
それでは、どうなのでしょう。律法を守ることによってではなく、恵みを受けることによって救われるのであれば、「罪を犯してもかまわないのだ」ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
もちろん、絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだのに、どうしてなお罪の中に生きていられるでしょうか。私たちがバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト・イエスに結び合わされた時、罪の支配力は打ち破られてしまったのです。
けれども、はたして納得できますか。私に死をもたらしたのは、ほかならぬ律法なのです。だとしたら、どうして律法が良いものでありえましょう。律法を利用して死罪をもたらしたのは、悪魔的なこの罪なのです。罪がどんなにずる賢く、恐ろしく、いまわしいものかわかるでしょう。自分の悪い目的のために、ぬけぬけと律法を利用するのですから。
私が、律法は悪いものだと言っていると思いますか。絶対にそんなことはありません。それどころか、律法が私の罪を明らかにしてくれたのです。もし、「むさぼってはならない」(出エジプト20・17)という律法がなければ、私は自分の心にあるむさぼりを知らなかったでしょう。
あなたがたの体は、キリストの体の一部であることがわからないのですか。キリストの体の一部と売春婦とを結びつけるようなことをしてよいでしょうか。とんでもないことです。
しかし私は、主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものなど何もありません。十字架によって、私は、この世のものすべてに対して興味を失ってしまいました。この世も、私に対する興味をすっかり失ってしまったのです。
焼き尽くすいけにえや穀物の供え物、その他のいけにえをささげる祭壇を築いて、主から離れたり、反逆したりするなんて、とんでもない。ありえないことです。いけにえをささげる祭壇は、幕屋の前にある祭壇だけなのですから。」
すると、民は言いました。「私たちが主を捨てて、ほかの神々を拝むなどありえないことです。
私も、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなどしない。これからも、良いこと正しいことを教え続けよう。
「ああ、なんということをしてしまったのだ。神様が王としてお選びになった人にそのようなことをするなど、大それたことではなかったか。」