レゾンは、ダビデがツォバを滅ぼした時、いっしょにダマスコへ逃げた兵士たちで略奪隊をつくり、その隊長になりました。のちにレゾンはダマスコの王になり、
そして夜になって、奇襲攻撃を展開して、敗走する敵軍をダマスコの北、ホバまで追跡し、
再び敗走するはめになってしまいました。この戦いで、シリヤ軍は戦車兵七百と騎兵四万を失い、将軍ショバクも戦死しました。
アモンの人々は、このことがダビデを本気で怒らせたことを知ると直ちに、レホブとツォバの地からシリヤ(アラム)の歩兵二万、マアカ王から兵士一千、トブの地から兵士一万二千を、それぞれ雇い入れました。
ダビデはまたユーフラテス川での戦いで、レホブの子、ツォバの王ハダデエゼルの軍を打ち破りました。ハダデエゼルが勢力を挽回しようと攻めて来たからです。
ソロモンの生きている間、レゾンもハダデもイスラエルに敵対しました。二人とも、イスラエルをひどく憎んでいたからです。
困ったアサ王は、神殿や宮殿の宝物倉に残っていた金銀を全部持たせて、ダマスコに住むシリヤの王ベン・ハダデ(一世)のところへ使いを送りました。
「さあ、ダマスコに通じる荒野の道へ引き返すのだ。ダマスコに着いたら、ハザエルに油を注いで、シリヤの王としなさい。
ベン・ハダデはすっかり感激して、「私の父があなたの父上から奪い取った町々をお返しします。父がサマリヤにしたように、あなたもダマスコに市場を開いてください」と言いました。こうして協定が成立しました。
ヤロブアム二世の強大な勢力、戦功、ユダに占領されていたダマスコとハマテを取り戻したことなどは、『イスラエル諸王の年代記』に記録されています。
そののち、エリシャはシリヤの首都ダマスコへ行きました。時に、シリヤの王ベン・ハダデ(二世)は病床に伏していましたが、「あのイスラエルの預言者が来た」と告げる者がありました。
そして、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれと頼み込みました。それはダマスコのクリスチャンを、男だろうが女だろうが、見つけしだい縛り上げ、エルサレムに連行するためでした。