こうしてパウロとバルナバは、やっとのことで、彼らがいけにえをささげるのをやめさせました。
「なんということだ。同じことばを使い、一致して事に当たると、人間はこれだけのことをやすやすとやり遂げてしまう。この分だと、これからもどんなことを始めるか、わかったものではない。思ったことを何でもやってのけるに違いない。
「うるさい、引っ込んでいろ!」暴徒たちは口々に叫びました。「だいたい自分を何様だと思っていやがるんだ。お情けでこの町に住ませてもらっているよそ者なのに、おれたちに命令しようっていうのか? こうなったら、あの二人のことなんかどうでもいい! それより、おまえの生意気な面の皮をひっぱがしてやろう。」言うが早いか、彼らはどっとロトに飛びかかり、戸を壊そうとし始めました。
その心は肥えて鈍くなり、 その耳は遠く、その目は閉じられている。 彼らは見もせず、聞きもせず、理解もせず、 神に立ち返って、わたしにいやされることがない。』(イザヤ6・9―10)
人々は熱狂して、むりやりにでもイエスを王にまつり上げかねない勢いです。イエスはそっと抜け出し、ただ一人、山に登って行かれました。
といっても、神のことが全然わからなかったわけではありません。神を思い起こさせるものは、いつでも私たちの周囲にあったのです。たとえば、雨を降らせてくださったのも神ですし、食べ物が不足しないようにと、収穫を与えて、喜びに満たしてくださったのも神なのです。」
しかし、その数日後、また別の事件が起こりました。アンテオケとイコニオムから数人のユダヤ人が来て、町の人たちを味方に引き入れ、パウロを襲って石を投げつけたのです。ぐったりとしたパウロを見て、てっきり死んだものと思った彼らは、パウロを町の外へ引きずり出しました。