しかし実際、律法を守ることによって神の祝福と救いとを得ようとしても、結局は、神の怒りを招く結果に終わるだけです。律法を破らないためには、破るような律法を持たないようにするしかありません。
喪服を着て、胸も張り裂けんばかりに泣きなさい。 主の激しい怒りが、まだ私たちから去らないからです。
あなたが、この恐ろしい破壊を招き寄せたのです。 あなたの怒りの日、逃げ延びた者や生き残った者は、 一人もいません。 幼い子どもたちはみな敵の手に落ち、 冷たくなって路上に横たわっています。
金銀を投げ捨てよ。怒りの日には何の価値もなくなるのだから、がらくたのように放り出せ。彼らの罪の根本は金銀を愛することにある。それが、腹を満たすことも満足させることもできなくなるのだ。
あなたがたの金銀も、主の怒りの日には役に立たない。 そんなもので自分の身代金を払うことはできない。 神のねたみの炎が、全地をなめ尽くすからだ。 神はユダの民すべてをたちまちのうちに取り除く。
ああ、それなのに、やはり血は争えないものだ。また同じことをくり返すとは、なんということか。しかも、今は以前より人数も多い。主はもっと激しくお怒りになるだろう。
わたしが来なくて、何も話さなかったのであれば、彼らは罪を問われなかったでしょう。しかし今はもう、罪の言いわけは許されません。
この方は神の御子なのです。この方に救っていただけると信じる者はだれでも、永遠のいのちを得ます。しかし、この方に従わない者は、天国を見ることができないばかりか、神の怒りがその人の上にとどまるのです。」
この福音は、私たちがキリストを信じる時、神が私たちを天国に入るにふさわしい者、すなわち、神の目から見て正しい者としてくださることを教えています。それは、初めから終わりまで、信仰によって達成されるのです。「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4)と、聖書に書いてあるとおりです。
これらの原因がアダムの罪にあることを、私たちは知っています。アダムからモーセまでの時代にも人々は罪を犯しましたが、神はそのころ、罪を犯したからといって、彼らに死刑を宣告したりはなさいませんでした。神はまだ、彼らに律法を与えておらず、また、彼らにどんなことを望んでおられるか告げてもいなかったからです。
律法の行いに頼って救われようとする者は、神にのろわれます。なぜなら、聖書には、「神の律法の書にあることばを一つでも破る者は、のろわれる」(申命27・26)とはっきり書いてあるからです。
では、そもそも律法は何のために与えられたのでしょうか。それは、神の約束につけ加えられたものであり、それに違反することがどんなに罪深いことかを人々に示すためです。ただし、この律法の有効期間は、その約束の指し示す「子」、すなわち、キリストが来られる時まででした。さらに次のような点も指摘できます。神様は律法を、天使たちを通してモーセにお与えになり、モーセがそれを民に告げ知らせたのです。
これらの罪の言いわけをする者たちに、だまされてはなりません。神の恐ろしい怒りは、こういう行いをする者に容赦なく下るのです。
そんなことをする人に、神の恐ろしい怒りは下るのです。
罪を犯し続ける人は、神に逆らっているのです。罪はすべて、神のお心に反する行為だからです。
この方は、諸国の民を打つために、鋭い剣をくわえておられました。そして、鉄のような手で、国々を完全に支配なさり、また、全能の神の激しい怒りに満たされた酒ぶねを踏まれます。