ユダヤ人の両親から生まれたとか、ユダヤ人と認められるための割礼(男子が生まれて八日目に、その性器の包皮を切り取る儀式)を受けたというだけでは、真のユダヤ人とは言えません。
神はイスラエルに対して、 なんと恵み深いことでしょう。 心のきよい人に対して、その恵みは行き渡ります。
体だけでなく、心と思いもきよめよ。 そうでなければ、おまえたちの罪のために わたしの憤りが爆発し、 おまえたちを黒こげにしてしまう。 誰ひとり、その火を消すことはできない。
わたしが、体に割礼(男子が生まれて八日目に その生殖器の包皮を切り取る儀式)を受けていても、 心に割礼を受けていないエジプト人、エドム人、 アモン人、モアブ人、アラブ人、 そしておまえたちユダの民を 罰する時が近づいている。 異教の国々の民でも体の割礼は受ける。 わたしを愛するしるしに心の割礼を受けなければ、 おまえたちの割礼は、 異教徒の儀式と少しも変わらない。」
『私はユダヤ人だから、アブラハムの子孫だから大丈夫』などと思ってはいけない。そんなことは何の役にも立たない。神はこんな石ころからでも、今すぐアブラハムの子孫をお造りになれるのだ。
ナタナエルも行ってみる気になりました。イエスは歩いて来るナタナエルの姿に目をとめておっしゃいました。「この人こそ生粋のイスラエル人です。正直で、うそがありません。」
あなたは、自分はユダヤ人だと称し、「ユダヤ人には律法が与えられているのだから、私と神との間は万事うまくいっている」と考え、「私たちは神と特別親しい関係だ」と自慢しています。
割礼を受けているかいないかは、今は、全く問題ではありません。大切なのは、私たちがほんとうに別の新しい人に造り変えられているかどうか、ということです。
あなたがたも以前は異教徒として、ユダヤ人から、神を信じない「汚れた者」と呼ばれていたことを思い出してください。もっとも、そういうユダヤ人も、神を敬うしるしとしての割礼(男子が生まれて八日目に、その性器の包皮を切り取る儀式)を受けて、信心深そうに儀式や礼拝を守っていたとはいえ、心は汚れたままだったのですが。
〔これは、バプテスマ(洗礼)を指し示しています。私たちの受けるバプテスマは、キリストの復活による、死と滅びからの救いを意味します。それは、体の汚れを洗いきよめるものではなく、神に立ち返った私たちの心が罪からきよめられるものです。〕
「わたしは、主のためにあなたが、どんなにひどい苦しみと貧しさに耐えてきたかを知っています。〔しかし、実際は天に宝を得ているのです。〕さらに、自分こそユダヤ人(神に選ばれた者)だと主張する人々から、白い眼で見られ、非難されてきたことも知っています。しかし、あの人たちは悪魔の仲間であって、真のユダヤ人ではありません。