というのも、彼らには、キリストが自分たちを神の前に正しい者とするために死んでくださったことが、わかっていないからです。そして、自分たちの正しさを認めさせようとして、神の救いの道に従わなかったのです。
いつでも、あなたは私たちを正しく罰しました。犯した罪の深さからすれば当然の罰です。
彼は大声で友人に言う。 『私は罪を犯したが、神は釈放してくださった。
神よ。あなたの力と恵みは天の天にまで届きます。 あなたほどすばらしいことをなさった神が、 ほかにあるでしょうか。
自由の身となることを願い、主を尋ね求める者よ。 わたしの言うことを聞け。 あなたがたが掘り出された採石場、 切り出された岩を見よ。 先祖アブラハムとサラのことを考えてみよ。 あなたがたは、力がなく数も少ないと思い悩んでいる。 だが、わたしがアブラハムを呼び出したとき、 彼はたった一人ではなかったか。 それが祝福を受けて、大きな国になった。
高い空と足もとの地を見よ。 大空は煙のように消えてなくなり、 大地は着物のように古びる。 そこに住む者は、はえのように死ぬ。 だが、わたしの救いはいつまでもすたれることがない。 わたしの公正な支配は、 とだえることも行きづまることもない。
彼らは、虫が衣を食い荒らすように 食い尽くす。 だが、わたしの正義と恵みは いつまでも続き、 わたしの救いは代々限りなく続く。
神である主はこう命じます。 「正義を守り、すべての人に公正であれ。 正しいことを行いなさい。 もうすぐ、あなたを救い出しに行くからだ。
さらに、おまえたちの正しさと良い行い、 そんなものは、おまえたちを救えない。
私たちはみな罪の毒に冒され、汚れきっています。 これこそ正義だという最上の着物をまとっても、 悪臭を放つぼろきれにすぎません。 私たちは秋の木の葉のように色あせ、 しおれて落ちます。 あえなく罪の風に吹き飛ばされるばかりです。
主の恵みは決してなくなることがない、 ということです。 私たちが滅亡しなかったのは、 主の恵みによります。
主は、エルサレムとあなたの同胞とに、さらに四百九十年に及ぶさばきを言い渡した。そののち、ようやく彼らは罪から離れるようになり、その罪のとがめから解き放たれる。それから、永遠の義の支配が始まり、預言者たちが告げたように、神殿の至聖所が再建される。
しかし律法の専門家は、自分がある人々を愛していないことを正当化しようと、「隣人とはだれのことですか?」と聞き返しました。
そんな彼らに、イエスはおっしゃいました。「あなたがたは、人前ではいかにも上品でうやうやしい態度をとっています。しかし神は、あなたがたの悪い心をお見通しです。いくら人の目をごまかし、賞賛を受けても、神には憎まれるのです。
この福音は、私たちがキリストを信じる時、神が私たちを天国に入るにふさわしい者、すなわち、神の目から見て正しい者としてくださることを教えています。それは、初めから終わりまで、信仰によって達成されるのです。「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4)と、聖書に書いてあるとおりです。
私は、彼らが神の誉れをどんなに熱心に求めているか、よく知っています。しかし、それは見当違いの熱心なのです。
後に、イザヤも大胆にこう言っています。 「捜し求めもしなかった人々によって 神は見いだされる。」(イザヤ65・1)
大部分のユダヤ人は、追い求めていた神の恵みを得ることができませんでした。恵みを得たのは、神に選ばれた少数の者だけでした。ほかの人々は心を閉ざされてしまったのです。
そして今日も、神はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。イエスが彼らを、義と認めてくださるためです。 しかし、このように罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神の公正なやり方に反するのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜなら彼らが、自分の罪を帳消しにしてくださったイエスを信じたという事実に基づいて、神はそうなさるからです。
神に従わなかったアダムは多くの人を罪人にしましたが、神に従ったキリストは、多くの人を神に受け入れられる者としてくださいました。
それは神様が、罪のないキリストに私たちの罪を負わせ、それと引き換えに、私たちに恵みを注いでくださったのですから。
神様の律法に従っているならば、私たちはすべてがうまくいくのだよ。』
もはや、良い人間になろうとか、律法に従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリストを信じることによって救われ、キリストと結ばれるためです。神が私たちを正しい者と認めてくださるのは、信仰――ただキリストだけを信じ頼ること――を持っているかどうかで決まるからです。
イエス・キリストのしもべであり、使徒であるシモン・ペテロから、神であり救い主であるイエス・キリストから与えられた、同じ信仰を持つ皆さんへ。