ユダヤ人と外国人との区別はありません。同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、恵みを惜しみなく与えてくださるからです。
そして、真心から願い出る人の そば近くにいてくださるのです。
主は恵み深いお方で、 赦すのをためらったりなさいません。 助けを求めて来る人にはだれにでも、 あふれるほどにあわれみをかけてくださいます。
見いだすことのできる間に主を探し求めなさい。 近くにいる間に主を呼び求めなさい。
石が雨あられと飛んで来る中で、ステパノは祈りました。「主イエスよ。私の霊を迎え入れてください。」
それに、祭司長たちから逮捕状をもらい、このダマスコのクリスチャンを一人残らず捕らえる権限を持っているという、もっぱらのうわさです。」
キリストが死んで復活したのは、私たちが生きている時も死んでいる時も、キリストが私たちの主となられることでした。
また、預言者イザヤはこう言っています。 「エッサイの家系に一人の世継ぎが生まれる。 その方は外国人を治める王となる。 彼らは、ただこの方だけに望みをかける。」(イザヤ11・10)
神がどれだけ忍耐しておられるか、わからないのですか。それとも、そんなことは気にもかけていないのですか。神があなたを罰しもせず、長いあいだ待っていてくださったのは、罪から離れるのに必要な時間を与えるためでした。神の愛は、あなたを悔い改めに導くためのものです。
神の民として招かれ、キリスト・イエスによって神に受け入れられる者とされたコリント教会の皆さん、および主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているクリスチャンの方々へ。この主は、私たちの主であると共に、すべての人の主です。
アダムは地上の土から造られた者ですが、キリストは天から来られた方です。
あなたがたは、主イエス・キリストが、どんなに愛と恵みに満ちておられたかを知っています。あれほど富んでおられた主が、あなたがたを助けるために、あれほど貧しくなられました。その貧しさによって、あなたがたを富む者とするためでした。
もはや、ユダヤ人とギリシヤ人、奴隷と自由人、男と女という区別はありません。みな、キリスト・イエスにあって一つなのです。
神の愛は、そのひとり子の血を流し、私たちの罪を帳消しにしてくださるほど大きいのです。この愛によって私たちは救われました。
しかし神は、なんとあわれみに満ちたお方でしょう。こんな私たちを深く愛してくださって、
神がキリスト・イエスを通してなしてくださった、すべてのことからも、神の恵みのすばらしさがわかります。私たちは今、その恵みがどんなに豊かであるかを示す見本とされているのです。
どうか、父なる神が、その栄光に満ちた無限の富の中から、御霊を通して人を内面から強くする力を、あなたがたに与えてくださいますように。
その特別の計画とは、神の子どもとされた者たちが、外国人もユダヤ人と共に、すべての救いの恩恵を受け継ぐということです。ユダヤ人も外国人も、共に神の教会の一員として招かれています。そして、キリストについての福音と、この方がなされたこととを受け入れる時、キリストによって大いに祝福するという神の約束に、両者ともあずかるのです。
私はそのような資格の全くない者で、クリスチャンの中で最も役立たずの人間です。それにもかかわらず、キリストのうちにある無限の富が外国人にも与えられるという計画を伝える者として、こんな私が選ばれたのです。
すべての口が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
神は、キリスト・イエスが成し遂げてくださったことによるご自身の栄光の富の中から、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださる方です。
そこでは、国籍、人種、教育、社会的地位の違いなどは全く問題ではありません。大切なのは、キリストをしっかりつかんでいるかどうかです。そして、キリストを自分のものにする機会は、だれにも平等に与えられているのです。
その真理とはこうです。神と人間とは、それぞれ別の岸に立っています。そして、人となられたキリスト・イエスがその間に立ち、ご自分のいのちを全人類のために差し出すことによって、両者の橋渡しをされたのです。これこそ、時が至って、神が私たちに示された教えにほかなりません。
そして、彼らは団結して小羊と戦いますが、小羊の勝利に終わります。なぜなら、小羊は主の主、王の王であり、彼に従う者たちは、えり抜きの忠実な者だからです。
その衣とももには、「王の王、主の主」という名が記されていました。