ナオミは答えました。「お願いだからナオミなんて呼ばないで。マラって呼んでちょうだい〔ナオミは「心地よい」、マラは「苦い」の意〕。全能の神様に、ずいぶんつらい目を見させられたんですから。
アブラムが九十九歳になった時、主が彼に現れました。「わたしは全能の神である。わたしの命令に従って正しく生きなさい。
その人の前に立つ時、全能の神様が守ってくださり、シメオンが自由にされ、ベニヤミンも無事に帰れるように。もし、この二人が死ぬことにでもなったら……それもしかたあるまい。ただじっと耐えるだけだ。」
あなたは神の思いと目的を知っているのか。 どんなに時間をかけて調べたところで、わかるまい。 全能者をさばく資格なんかないのだから。
いま言えることは、神が私を押し倒し、 網で生け捕りにしたということだ。
神に誤りを正してもらえる人は、 なんと幸せなことか。 神の懲らしめをないがしろにしてはいけない。 自分で罪を犯し、招いた結果なのだから。
主は弓矢で私を狙いうちにした。 その毒矢は心臓深く突き刺さった。 神からの恐怖は隊列を組んで私に襲いかかる。 そのたびに、身のすくむような思いがする。
次から次へと、息もつかせず、 非常な悲しみで私の心を満たしている。
神に従う生活から得たものは、 苦しみと災いだけです。 しかも、それは、くる日もくる日も、 朝から晩まで私につきまとうのです。
私は若いころから病気がちで、 いつも死にさらされていました。 死におびえて、なすすべもなく立ち尽くしていました。
やっとマラに着きましたが、水はあるものの苦くてとても飲めません。それで、マラ〔「苦い」の意〕という名がついたのです。
私は夜通しうめいた。 まるでライオンに引き裂かれるような苦しみだ。
罰を受けた当初はだれも気持ちがよいはずはなく、むしろ傷つけられたと感じるものです。しかしあとになれば、それが自分の益となり、すべての面で良かったことがわかります。
今も昔も存在し、やがて来られる全能の主なる神が、こう言われます。「わたしはあらゆることの初めであり、終わりである。」(イザヤ41・4)
それにしても、都には、どこにも神殿が見あたらないのです。というのも、全能の神である主と小羊とを、都のどこででも、自由に礼拝できるからです。