また、自分の目に大きなごみが入っているのに、どうしてほかの人の目の中にある、小さなちりを気にするのでしょう。
彼よりりっぱな二人の人物を殺した責任は、すべて彼にある。父上は、イスラエルの将軍アブネルと、ユダの将軍アマサの死には、全くかかわりがなかった。
ただし、ヨアブは王の命令に心を痛めていたので、数の中にレビとベニヤミンの二部族を入れませんでした。
それどころか、知らないふりをして押し通せば、 どんな不正行為も隠し続けることができ、 捕まることはないと、自分に言い聞かせています。
人の心は何より欺きやすく、芯まで腐っている。 それがどんなに悪質であるか、 だれにもわからない。
深く反省して、罪の道からきっぱり離れ、正しい人生を送ろうと決心したからだ。彼は必ず生きる。決して死ぬことはない。
人のあら探しをしてはいけません。自分もそうされないためです。
また、小さい魚が少しばかりあったので、これも同様に祝福してから、人々に配るよう弟子たちに手渡されました。
弟子が師より偉くなれますか。しかし、一生懸命努力すれば、自分の師と同じぐらいにはなれます。
自分の目の大きなごみで、よく見えもしないのに、どうして、『あなたの目にごみが入ってるから、取ってあげよう』などと言うのでしょう。偽善者よ。まず自分の目のごみを取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、ほかの人の小さなごみを取ってあげることもできるのです。
けれども、彼らは引き下がりません。あくまで質問を続けてやめなかったので、イエスはゆっくり体を起こし、「わかりました。この女を石で打ち殺しなさい。ただし、最初に石を投げるのは、今まで一度も罪を犯したことのない者ですよ」と言われました。
こう書くと、あなたは、「なんてひどい連中だろう」と言うかもしれません。しかし、悪いことにかけてはあなたも、五十歩百歩ではありませんか。「そんな悪い連中が罰を受けるのは当然だ」ときめつける時、ほかでもない自分自身にそう言っているのです。自分も同じことをしているのですから。
鏡から離れると、自分がどんな表情をしていたか、すっかり忘れてしまいます。