「ある町に、少しも神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいました。
正しい人は貧しい人の権利も認めますが、 神を信じない者は気にもかけません。
街道は荒れ果て、 旅人は裏道を遠回りしなければなりません。 アッシリヤ人は平和協定を破ります。 証人の前で取り決めた約束など 何も気にかけていないのです。 相手がだれであれ、手かげんしません。
同じ町に住む一人の未亡人が、たびたびこの裁判官のところへ押しかけ、『訴えられて困っています。どうか私を守ってください』と願い出ました。
裁判官はしばらくの間、相手にしませんでしたが、あまりのしつこさに我慢できなくなり、心の中でこう考えました。『私は神だろうが人間だろうがこわくないが、あの女ときたらうるさくてかなわない。しかたがない。裁判をしてやることにしよう。そうすれば、もうわずらわしい思いをしなくてすむだろう。』」
考えあぐねた主人は、一人つぶやきました。『いったい、どうしたものか。そうだ、かわいい息子をやろう。息子なら、きっと農夫たちも一目おくに違いない。』
この世では父親が子どもを罰しても、子どもから尊敬されなくなるようなことはありません。だとしたら、私たちは真に生きることを学ぶために、喜んで神の訓練を受けるべきではないでしょうか。