自分には豊富な知識があると考える人がいたら、 神に近づく方法を教えてもらいたい。 私たちはあまりにも鈍く、 何もわかっていないからだ。 はて、そんな知識で神に近づけるだろうか。 生きたままのみ込まれてもよいというのか。
あなたも、私と似たようなものだ。 それくらいのことを知らない者はない。
ああ、全能者とじかに話してみたい。 この問題を直接、話し合ってみたい。
さあ、聞いてくれ。 私の考えの背景にある道理と訴えに耳を貸してくれ。
こんなことは神にすればほんの小さなことで、 御力がかすかにささやいただけにすぎない。 まして、神が大声を出したとしたら、 だれがそれに耐えられるだろう。」
「なぜおまえは、わたしの摂理を否定しようとして、 無知をさらけ出すのか。
「私は何の値打ちもない者です。 どうして答えることができましょう。 口に手をあてて黙り込むだけです。
愚かにもあなたの摂理を否定する者はだれか とお尋ねですが、それはこの私です。 私は何もわかっていないことを口走り、 及びもつかない不思議を論じていました。
私には、全能の神を相手どって議論し、 説き伏せることなどできない。
このようなことはあまりにも栄光にあふれ、 すばらしい話なので、 ほんとうだとは信じがたいほどです。
自分がどれほど愚かで無知であったかを 思い知らされたのです。 ああ神よ。私は獣のように見えたことでしょう。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどのように祈ったらよいかさえわからないのですが、御霊は、ことばに表せないほどの深い同情と理解をもって、とりなしてくださるのです。
同様に、今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。しかし、やがていつかは、面と向かって神の完全な姿を見るのです。いま私が知っていることは、おぼろげで、ぼんやりしています。しかしその時には、いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。
愛する人たち。私たちは、もうすでに神の子どもなのです。これから先のことは想像もつきませんが、ただこの一事だけはわかっています。つまり、キリストが再び来られる時、私たちはキリストに似た者となるということです。その時、キリストのありのままの姿を見るからです。