たとえ心に責められることがあってもです。
自分が絶対に罪人でないことを、 私は何度でもくり返して言う。 私は生涯、良心に責められることがない。
私の答えを言おう。 このように神を悪しざまに言うことこそが、 そもそも罪なのだ。 神は人より偉大ではないか。
あなたは隠された罪をあばき、 私たちのすべての罪をごらんになります。
ただわたしだけが人の心を知っていて、 隅々まで探り、 一番奥に隠された動機までわかる。 そして、一人一人に それぞれの生き方に応じた報いを与える。
人はわたしから姿を隠せるだろうか。 わたしは、天にも地にも、どこにでもいるではないか。
イエスはもう一度言われました。「ヨハネの子シモン。ほんとうにわたしを愛していますか。」三度こんな尋ね方をされたので、ペテロは心に痛みを感じながら答えました。「主よ。いっさいをご存じなのはあなたです。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」「それでは、わたしの羊を養いなさい。
すると、ユダヤ人の指導者もパリサイ人も、ばつが悪そうに、年長者から順に一人去り二人去りして、とうとうイエスと女だけが、群衆の前に取り残されました。
これを聞いた議員たちは烈火のごとく怒り、使徒たちを殺そうと決めました。
では、私たちを罪に定めるのはだれですか。キリストですか。とんでもない。キリストは私たちのために死に、復活し、今は神の右の座で、私たちのために祈っていてくださるお方ではありませんか。
良心にやましいところはさらさらありませんが、だからといって、安心しきっているわけでもありません。調べた上で判定をお下しになるのは、主ご自身だからです。
そのような人は心が曲がっていて、悪いとわかっていながら、罪を犯しているのです。
神は、人がどこにいようと、すべての人の心を見抜かれるお方です。神に造られたもので、神の目から隠れおおせるものは一つもありません。今も生きて、すべてを見抜かれる神の前に、私たちは裸のままさらけ出されているのです。私たちはこの方に対して、自分のなしたすべてのことを弁明しなければなりません。
アブラハムに与えられた約束を覚えていますか。神は、自分以上にすぐれた存在はありえないので、ご自分の名を指して誓われました。
そうすれば、自分が神の側に立っていることを強く確信し、主の前に平安があるのです。
しかし、愛する人たち。もし私たちの良心が潔白であれば、完全な確信と信頼を持って主の前に出ることができます。
愛する子どもたち。あなたがたは神の側につく者として、キリストに敵対する者と戦い、すでに勝利を収めてきました。それは、あなたがたのうちに、この世にいるどんな悪い教師よりも、はるかに強い方がおられたからです。
また、あの女の子どもたちも打ち殺します。こうしてすべての教会は、わたしが人の心と思いを見通すことを知るのです。わたしは一人一人に、それぞれの行いに応じて報います。