愛する人たち。私たちは、もうすでに神の子どもなのです。これから先のことは想像もつきませんが、ただこの一事だけはわかっています。つまり、キリストが再び来られる時、私たちはキリストに似た者となるということです。その時、キリストのありのままの姿を見るからです。
この肉体が朽ち果てたのち、 私は新しい肉体で神を見る。
神は生きる喜びを教え、 永遠に共にいてくださるという 無上の喜びを経験させてくださいます。
しかし、私の関心は富にはなく、 私が神を見ているかどうか、 また、神と正しい関係にあるかどうかにあります。 私は天で目覚めるとき、 この上ない満足感にひたるでしょう。 神の御顔をじかに見るからです。
あなたの助けを信じて公言する者を、 あなたはなんと大きな恵みで 包んでくださることでしょう。 信頼と敬愛を失わない者のために、 あなたはすばらしい祝福をたくわえておられます。
わたしの家とわたしの城壁のうちで、息子や娘を持つことにまさる名を彼らに与える。わたしが与える名はいつまでも価値のあるもので、決してすたれることはない。
「だが彼が現れる時、 だれが生きていられるだろう。 彼が来ることに、だれが耐ええよう。 彼は燃えさかる火のようであり、 真っ黒に汚れた上着を、 真っ白にすることができるからだ。
心のきよい人は幸いです。そういう人は親しく神とお会いできるからです。
わたしが再び来る時も同じです。その瞬間まで、すべてがいつものとおりなのです。
二度と死ぬこともありません。この点では、天使と変わりなく、また、死人の中から新しいいのちへと復活したのですから、神の子どもなのです。
これはイエスが、イスラエル人ばかりか、世界中に散らされているすべての神の子どもたちのためにも死んでくださるという預言でした。
父よ。彼らがわたしといっしょにいることができるようにしてください。彼らにわたしの栄光を見させてください。世界の造られる前からわたしを愛しておられた、あなたが下さった栄光を。
というのは、御霊が私たちに、あなたがたはほんとうに神の子どもであると語ってくださるからです。
けれども、私たちがいま味わっている苦しみは、後に私たちが受ける栄光に比べたら、取るに足りないものです。
そして、神がお造りになったすべてのものが、神の子どもたちの復活を忍耐と希望をもって待ち望んでいます。
というのは、神はあらかじめ、ご自分のもとに来る人を知っていて、そのような人々がご自分の御子と同じになるように、最初から定めておられたからです。それは、御子イエスを多くの主を信じる者たちの長子とするためでした。
同様に、今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。しかし、やがていつかは、面と向かって神の完全な姿を見るのです。いま私が知っていることは、おぼろげで、ぼんやりしています。しかしその時には、いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。
今アダムと同じ体を持っている私たちは、そのように、いつの日かキリストと同じ体を持つのです。
まさに、聖書の次のことばどおりです。 「人が、これまで見聞きしたことも、 想像したこともないほどすばらしいことを、 神は、ご自分を愛する人々のために 用意してくださった。」(イザヤ64・4、65・17)
私たちには顔の覆いがありません。鏡のように、主の栄光をはっきり映すことができます。そして、主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。
今の私たちの苦しみや悩みは、結局のところ、取るに足りないものであり、それほど長くは続きません。そして、このつかの間の苦しみは、永遠に尽きない、あふれるばかりの神の祝福をもたらすのです。
私たちはみな、すでに、イエス・キリストを信じる信仰によって神の子どもとなったからです。
このように神様は、私たちの心に、神の子の御霊を送ってくださいました。それで今、私たちは神の子どもとして、神を「お父さん」とお呼びできるのです。
その時、キリストは、あらゆるものを従わせることのできる超自然的な力で、私たちの死ぬべき体を、ご自身と同じ栄光の体に変えてくださるのです。
真のいのちであるキリストが再び戻って来られる時、あなたがたも彼と共に輝き、そのすべての栄光にあずかるのです。
キリストも、多くの人の罪のためにご自身をささげて、一度だけ死なれました。そして、もう一度おいでになりますが、今度は罪を取り除くためではありません。その時は、彼を待ち望んでいるすべての人の救いを完成させるために来られるのです。
さらに神は、それによって、すばらしい約束を与えてくださいます。この約束のゆえに、私たちは欲望のもたらす滅びから守られ、キリストのご性質を備えた者となれるのです。
そこで、私の子どもたちよ。いつも、主との親しい関係を保ちなさい。そうすれば、キリストが帰って来られる時、主にお会いするのをためらったり、恥じたりしないですむでしょう。
愛する人たち。私は今、新しい戒め(神のおきて)をつくり出しているのではありません。これは、初めからある古い戒めであり、すでに何度も聞いているみことばです。
天の父は、どんなに私たちを愛しておられることでしょう。私たちを、ご自分の子どもとして受け入れてくださったほどです。考えてもごらんなさい。神の子どもとされたのです。ところが、神を知らない多くの人は、当然、私たちが神の子どもであることを理解できません。
そこで今、私たちは、神の子どもと悪魔の子どもとを、はっきり見分けることができます。罪の生活を送り、兄弟であるクリスチャンを愛さない者は、自分から神の家族ではないと証明しているようなものです。
しかし、愛する人たち。もし私たちの良心が潔白であれば、完全な確信と信頼を持って主の前に出ることができます。
イエスはキリストである、すなわち、神の子であり救い主であると信じるなら、その人は神の子どもです。父なる神を愛する人はみな、神の子どもたちを愛するはずです。
また、あなたに明けの明星を与えます。
彼らは、神と顔を合わせることができます。またその額には、神の名が書き込まれています。