「はい、先生。」「そうですか。わたしもあなたを罰しません。さあ、行きなさい。もう二度と罪を犯してはいけませんよ。」
なぜ、人は神に、 『私たちは罪を犯しましたが、もういたしません』 と言わないのだろう。
自分の誤りを認めない者は成功しませんが、 素直に認め、直そうとする人には、 別のチャンスが転がり込みます。
見いだすことのできる間に主を探し求めなさい。 近くにいる間に主を呼び求めなさい。
それは違います。あなたがたも、悔い改めて神に立ち返らなければ、同じように滅びるのです。
そんなことはありません。あなたがたも罪を悔い改めないなら、同じように滅びるのです。」
同じように、一人の罪人が罪を悔いて神のもとに帰った時、天使たちはたいへんな喜びにわくのです。」
考えてもみなさい。あれはおまえの弟なのだよ。死んだと思ってあきらめていたのが、無事に帰って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、お祝いするのはあたりまえではないか。』」
それと同じことです。迷い出た一人の罪人が神のもとに帰った時は、迷ったことのない九十九人を合わせたよりも大きな喜びが、天にあふれるのです。
わたしは、自分を正しいと思う人を招くためではなく、罪人を招いて、罪を悔い改めさせるために来たのです。」
そして、一行は別の村に向かいました。
「わたしは地上の王ではありません。もし地上の王であったら、逮捕された時、弟子たちは戦いをいどんだでしょう。わたしの国はこの世のものではないのです。」
神がご自分の御子を世にお遣わしになったのは、世をさばくためではなく、世を救うためです。
しばらくして、イエスは宮でその男を見つけ、声をおかけになりました。「どうですか、すっかりよくなったでしょう。もう前のように罪を犯してはいけませんよ。そうでないと、もっとひどい目に会うかもしれませんから。」
人間の基準でわたしをさばいているからです。わたしはだれのこともさばきません。
神がどれだけ忍耐しておられるか、わからないのですか。それとも、そんなことは気にもかけていないのですか。神があなたを罰しもせず、長いあいだ待っていてくださったのは、罪から離れるのに必要な時間を与えるためでした。神の愛は、あなたを悔い改めに導くためのものです。
教会外の人たちをさばくことは、私たちの務めではありません。神おひとりのなさることです。しかし、教会員でありながら、このような罪を犯す者がいたら、教会として処置をとることは当然です。その悪い人を教会から除かなければなりません。
主が与えてくださるすべての町々に、裁判官と行政官を任命しなさい。正義が行われるためです。
レビ人の祭司か、その時、任に就いている裁判官に上告しなさい。彼らが判決を下します。
なぜ主が、こんなにも長く待っておられるのか考えてみなさい。主は、私たちが救いを伝える時間を与えておられるのです。学識の深い、愛する兄弟パウロも、多くの手紙の中で同じことを書いています。しかし彼の手紙はむずかしいところがあるので、中には的はずれの解釈をする者がいます。彼らは、聖書のほかの箇所もそうですが、パウロが言おうとしていることとは全く別の意味を引き出し、自分で滅びを招いているのです。