しかし、このことであなたがたを父に訴えるのはわたしではありません。それはモーセです。あなたがたはモーセの律法にひたすら天国への望みをかけていますが、律法を与えた当のモーセがあなたがたを訴えるのです。
『それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきです。』
しかし、わたしを退け、わたしの言うことを受け入れないすべての人をさばくものがあります。わたしの語った真理のことばが、終わりのさばきの日にその人をさばくのです。
あなたがたは、自分ではモーセの律法を守らないのに、どうして律法を破ったと、わたしを非難するのですか。どうして命までつけねらうのですか。」
すると、ユダヤ人の指導者もパリサイ人も、ばつが悪そうに、年長者から順に一人去り二人去りして、とうとうイエスと女だけが、群衆の前に取り残されました。
外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが文字に書かれた律法を知らなくてもさばかれます。彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。その心の中には、律法が書かれているのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。 ユダヤ人が罪を犯した場合は、神が彼らを罰せられます。律法が与えられているのに従わないからです。彼らは何が正しいかを知りながら、実行しません。結局のところ、なすべきことを知りながら実行しない人はさばかれるのです。
律法の行いに頼って救われようとする者は、神にのろわれます。なぜなら、聖書には、「神の律法の書にあることばを一つでも破る者は、のろわれる」(申命27・26)とはっきり書いてあるからです。