その時、私ははっと気がつき、「おい、あの方は主だよ!」とペテロに言いました。それを聞くと、ペテロは裸だったので、あわてて上着をはおり、水に飛び込みました。
これこそ主のなさることで、 人の思いをはるかに越えています。
どんなに水をかけても、 愛の炎を消すことはできません。 洪水も、それを押し流すことはできません。 たとえ全財産をはたいてその愛を買おうとしても、 買うことができません。」 「
もし、だれかに何をしているのかと聞かれたら、『主がお入用なのです。すぐお返しします』とだけ答えなさい。」
きちんと身じたくを整え、あかりをともしていなさい。
今夜、ダビデの町(ベツレヘム)で救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
この女の多くの罪が赦されたからです。そして、わたしを多く愛してくれたからです。少ししか赦されていない者は、少ししか愛さないのです。」
イエスに愛された弟子の私(筆者の使徒ヨハネ)は、食卓では先生の隣に座っていました。
イエスに愛された弟子の私(ヨハネ)もいっしょでした。イエスは、私と、私のそばに立ち尽くしているご自分の母親とを見つめ、「お母さん。ほら、そこにあなたの息子がいますよ」と声をかけられました。
驚いたマリヤは、息せき切ってシモン・ペテロと私のところに駆けつけ、「たいへんよ。だれかが主のお体を取って行ったわ! いったいどこに置いたのかしら」と叫びました。
手とわき腹をお見せになりました。主を見た弟子たちの喜びは、どれほどだったでしょう。
「ああ、わが主、わが神よ!」感きわまって、トマスは叫びました。
ペテロがふり向くと、イエスに愛された弟子(使徒ヨハネ)がついて来るのを見ました。最後の夕食の席で、イエスに寄りかかって、「主よ。裏切る者はだれですか」と尋ねたあの弟子です。
その弟子とは、実は私(筆者)のことです。私はこれらの出来事を、見たとおり、ここに記録しました。この記録が正確なことは、私たちみんなが知っています。
舟に残った私たちは、百メートルほど離れた岸辺まで、魚ではち切れんばかりの網を引いて、そろそろ進みました。
イスラエル人に伝えられた神のみことばについては、すでにお聞きでしょう。全人類の主である救い主イエスによって、私たちが神と和解できるということです。この教えは、バプテスマのヨハネが語り始め、ガリラヤからユダヤ全土に広まりました。
ですから、イスラエルのすべての人に、はっきり言っておきます。神様が主とし、キリスト(ギリシャ語で、救い主)とされたイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
アダムは地上の土から造られた者ですが、キリストは天から来られた方です。
愛する皆さん。人をえこひいきし、相手が金持ちか貧しいかによって態度を変えていながら、どうして臆面もなく、「私は主イエス・キリストを信じています」などと言えるでしょう。