ですから、「アブラハムは神を信じた。それで神の目に正しい者と認められた」(創世15・6)という聖書のことばどおり、彼は、「神の友」と呼ばれるまでになったのです。
アブラムは主を信じました。主はアブラムの信仰を義と認めました。
私たちの神よ、あなたの民がこの地に入った時、あなたはこの地に住んでいた異教徒を追い出し、この地を永久に、あなたの友アブラハムの子孫のものとされたではありませんか。
人が友のためにとりなすように、 その方に、私と神との間に立っていただきたい。
天幕の中では、まるで親しい友のように、主はモーセに語りました。そのあと、モーセが野営地に帰ると、彼の従者であるヌンの子ヨシュアはそのまま天幕に残りました。
しかし、わたしのしもべイスラエルよ。 あなたはわたしの友アブラハムの家族だ。 だから、わたしはあなたを選び、わたしのものとした。
あなたがたは、聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのですか。 『建築士たちの捨てた石が、 最も重要な土台石となった。
その日、二人の強盗も、イエスといっしょに十字架につけられました。二人の十字架はイエスの両側に立てられました。
それにこたえるように、イエスはこう言われました。「この聖書のことばは、今日、実現したのです。」
「皆さん。イエスを捕らえた暴徒どもの手引きをしたユダには、聖書のことばどおりのことが起こりました。そうならなければならなかったのです。ずっと昔、聖霊によって、ダビデ王が預言したことだからです。
神はもちろん、最初から選んだご自分の民を見捨てたわけではありません。聖書には何と書いてあるでしょうか。預言者エリヤはユダヤ人を告発し、彼らが他の預言者たちを殺し、神の祭壇をこわしたことを神に訴えています(Ⅰ列王19章)。「今なおあなたを愛する者は、この国中で私一人です。その私も、殺されそうなのです」と。
エジプトの王パロの場合は、その良い例です。神はパロにこう言われました。「あなたにエジプトの国を与えたのは、わたしの恐るべき力をあなたに示すため、それによって、世界中の人々が、わたしの栄光ある名を耳にするためである。」(出エジプト9・16)
聖書は、私たちはみな、その罪の力に閉じ込められていると宣告しています。そこから解放されるには、イエス・キリストを信じる信仰による以外にないのです。この罪からの脱出の道は、キリストを信じるすべての人に開かれています。
アブラハムも同じ経験をしました。彼は神の約束を信じたというだけで、天国へ入る資格を与えられたのです。
神の霊感によって書かれた聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをよく教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれます。
人は信仰だけでなく、行いによって神に正しいと認められることがわかるでしょう。
聖書にこう書いてあります。「見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。」(イザヤ28・16)