翌朝、例のいちじくの木のそばを通りかかると、なんと、根もとまですっかり枯れているではありませんか。
根は石地を伝い広がり、地下水にまで届く。
彼らがようやく仕事に取りかかり、 芽が出始めると、 神は痛い目に会わせ、彼らの働きは頓挫します。 そのうえ風が吹いて、 彼らをわらのように巻き上げるのです。
わたしはこのうえ、いったい何ができよう。 ここまでしたのに、なぜわたしのぶどう園は 甘いぶどうではなく、野生のぶどうを実らせたのか。
土が浅すぎて十分根を張ることができません。やがて日が照りつけると枯れてしまいました。
しかし、イエスは言われました。「わたしの父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎ抜かれてしまいます。
翌朝、エルサレムに向かう途中、イエスは空腹を覚えられました。
翌朝、ベタニヤを出たイエスは、途中で空腹になられました。
それでイエスは、その木に向かって、「二度と実をつけることがないように」と言われました。弟子たちはこのことばを心にとめていました。
わたしから離れる者はだれでも、役に立たない枝のように投げ捨てられ、枯れてしまいます。最後には、ほかの枝といっしょに積み上げられ、焼かれてしまうのです。
しかし、いばらやあざみばかりを生えさせるなら、その畑は役立たずとして焼き払われてしまいます。
こういう者たちが、教会での愛の会食に加われば大きな汚点を残します。彼らは、他人のことなどおかまいなしに大声で笑ったり、ふざけたりしながら、むさぼり食うのです。まるで、からからに乾ききった大地の上を、一滴の雨も降らせずに通り過ぎる雲のようです。大いに期待させるだけで、何の役にも立ちません。また、彼らは収穫の時期になっても、実一つつけない木に似ています。その状態はただの死ではなく、二重の死を意味します。彼らは根こそぎ引き抜かれて、焼かれるしかないのですから。