こうして、イエスについてイザヤが、「彼は、私たちの痛みを身に引き受け、私たちの病を負った」(イザヤ53・4)と預言したとおりになったのです。
アブラハムは、完全に焼き尽くすいけにえ用のたきぎをイサクに背負わせ、自分は刀と火打ち石を持ちました。二人はいっしょに歩いて行きました。
しかし、彼は私たちの悲しみを負い、 私たちの嘆きをにないました。 私たちは、彼がそんなに苦しむのは、罪を犯して 神に罰せられているからだと思いました。
このことはみな、神が預言者(神に託されたことばを語る人)を通して語られた、次のことばが実現するためです。
そして、ヘロデ大王が死ぬまでそこに住みました。こうして、「わたしは、わたしの子をエジプトから呼び出した」(ホセア11・1)という預言者のことばが実現することになったのです。
ナザレという町に住みました。こうして、預言者がメシヤのことを、「彼はナザレ人と呼ばれる」と語ったとおりになったのです。
日の沈むころになると、シモンの家の庭は、イエスに治していただこうと連れて来られた病人や悪霊につかれた者たちで、いっぱいになりました。
夕方になると、病人を連れた村の人たちが、ぞくぞくとイエスのもとに詰めかけました。イエスは、どんな病気であろうと、連れて来られた病人の一人一人にさわり、治されました。
すべてはキリストのためであることを知っているので、その「とげ」も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜んでいます。なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。――無力であればあるほど、それだけ、キリストによりすがるようになるからです。
キリストは、私たちの罪をその身に負って、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは罪から離れ、正しい生活を始めることができたのです。キリストが傷つくことによって、私たちの傷はいやされました。