「ああ、恐れと悲しみのあまり、今にも死にそうです。ここを離れずに、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」
私は死に直面し、恐怖にかられ、 悲しみのどん底に突き落とされました。
私は答えました。 『もう寝間着を着てしまったのに、 また着替えるのですか。 足も洗ったので汚したくありません。』
彼を傷つけ、悲しみで満たすのは、 主の計画だったのです。 罪の赦しのためのささげ物として、 そのたましいをささげるとき、 彼は多くの子孫を見ることができます。 彼は復活し、 神の計画は彼の手によって成し遂げられます。
それゆえ、わたしは 彼に、 偉大な勝利者としての栄誉を与える。 彼は進んでいのちをささげたのだ。 彼は罪人の一人に数えられ、多くの人の罪を負い、 罪人のために神にとりなしをした。」
私たちは彼をさげすみ、受け入れませんでした。 彼は悲しみの人で、 苦しみをなめ尽くした人でした。 私たちは彼に背を向け、 そばを通っても顔をそらしました。 彼が侮られても、そ知らぬふりをしていました。
こんなことにならないために、目を覚まして、いつでもわたしを迎える準備をしていなさい。わたしが来るその日、その時が、いつかわからないのですから。
「わたしは悲しみのあまり、今にも死にそうです。ここを離れず、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」
しかし、わたしの心は騒いでいる。いったい、わたしはどうしたらいいのだろうか。『父よ。これから起きることからお救いください』と祈るべきだろうか。ああ、いや、このために、この時のために、わたしは来たのでした。
神は私たちすべてのために、たった一人の御子さえ惜しまずに、死に渡されたほどのお方ですから、ほかのすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか。
それは神様が、罪のないキリストに私たちの罪を負わせ、それと引き換えに、私たちに恵みを注いでくださったのですから。
しかし自分の悪い行いのために、私たちが受けなければならないはずののろいを、キリストはご自分の身に引き受け、私たちを律法ののろいから救い出してくださいました。聖書に、「木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である」(申命21・23)と書いてあるからです。
キリストは、私たちの罪をその身に負って、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは罪から離れ、正しい生活を始めることができたのです。キリストが傷つくことによって、私たちの傷はいやされました。
キリストも苦しまれました。罪を犯したことのない方であったにもかかわらず、私たち罪人のために死なれたのです。それは、肉においては死んでも、霊においては生かされて、私たちを神のもとに導くためでした。
世の終わりが近づいています。ですから、分別を持ち、身を慎んで祈りなさい。