だから『祭司も民も変わらない』と言われる。 祭司が悪いから、民も悪くなるのだ。 だから、祭司も民も、その邪悪な行いに応じて罰する。
神を信じる人がこの世で報われるとすれば、 神に逆らう者が相応の報いを受けるのは当然です。
ほんとうのことを言う人も、 こつこつ働く人も必ず報われます。
悪者は、自分自身の罪で 自分の足をすくっているのです。 罪はその人を捕らえ、 逃れることができないようにする縄です。
祭司も一般の民も、召使も主人も、 女奴隷も女主人も、売り手も買い手も、 貸す者も借りる者も、銀行家も債務者も、 一人として免れることはできません。
しかし神を敬う人は、何もかもうまくいきます。 そういう人には、 「すばらしい報いがある」と励ましなさい。
祭司はまやかしの預言者の意のままになり、 民は、そうなることを喜んでいる。 おまえたちは必ず滅びる。 その時はどうするつもりなのだ。」
また、レビ部族の者でも、イスラエルが神から離れて偶像に走った時、わたしを捨てた者たちは、その不誠実をきびしく罰せられなければならない。
それなのに、ほかの神々を礼拝するように民をそそのかし、恐ろしい罪に引きずり込んだ。」それゆえ、神である主はこう語ります。「わたしは手を上げて誓う。彼らは罰を受けなければならない。
すると、主は言いました。「その子をイズレエルと名づけよ。わたしはイズレエルの谷で、エフーが犯した殺人(Ⅱ列王10・11参照)に報復するため、エフー王家を罰しようとしている。そうだ、わたしはイズレエルの谷で、イスラエルの独立を失わせ、その国の力を打ち破ろう。」
わたしはあなたたちの不従順に立ち向かう。 山のように積み上げられた罪を罰するために、 諸国の軍隊を集めてあなたたちを攻めさせる。
けれども、主はユダを告訴しようとしています。 ヤコブはその行いのゆえに、公正に罰せられます。
ヤコブは生まれる時に兄弟と争い、 大人になってからは神とさえ戦ったのです。
イスラエルの民は、 わたしが見ていることなど気にもかけない。 その罪深い行いが、 あらゆる面から彼らの正体をあばいている。 わたしはそれをすべて見ている。
この民は、いけにえの儀式を好むが、 わたしにとっては無意味なものだ。 わたしは彼らの罪の清算を要求し、罪を罰する。 彼らはエジプトに戻る。
「彼らのすべての悪事はギルガルで始まった。 わたしも、その地で彼らを憎み始めた。 その偶像礼拝のゆえに、 わたしは彼らをわたしの地から追い出す。 もう彼らを愛さない。 彼らの指導者はみな反逆者だからだ。
今わたしの民がしていることは、 昔、彼らがギブアでしたこと(士師19・14以下参照)と 同じように堕落している。 主はそれを忘れず、必ず罰を下す。
だから、あの人たちのことは放っておきなさい。彼らは盲目なのです。おまけに、ほかの盲人の手引きまでして、結局、二人とも溝に落ちてしまうでしょう。」