この新しい大祭司は、古い律法に属するレビ族からではなく、尽きることのない、いのちからほとばしる力を基として立てられたのです。
本来、律法は霊的なものであり、問題はむしろ罪ある私にあります。私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているのです。
キリストが来られるまでは、私たちもそれとよく似た立場にありました。ユダヤ教の戒律や規則によって救われると考えて、その奴隷となっていたのです。
ところが今は、神を知っているのに〔というより、むしろ神に知られているのに〕、どうして、もとの状態に逆戻りしたがるのですか。あの貧弱で、無力で、役立たずの教えの奴隷に逆戻りしようとするのですか。
神の定めに違反したことが記されているあなたがたに不利な証書を、塗りつぶしてしまわれたからです。この罪の証書は、キリストの十字架と共に釘づけにされて無効となったのです。
キリストと共に死んだあなたがたは、この世の教えから解放されたのです。それならなぜ、「あれは食べるな、なめるな、さわってもいけない」などという規則に縛られ、この世の考えに従う生活を続けているのですか。
律法による古い制度は、やがてキリストが与えてくださるもののすばらしさを、かすかに味わわせてくれるにすぎません。いけにえは年ごとに何度もくり返されましたが、それをささげた人たちを救えませんでした。
そういうわけで、私たちは、これまでの神の秩序に大きな変更があったことを認めざるをえません。キリストが、メルキゼデクの位に等しい、新しい大祭司として立てられたからです。
詩篇の作者は、はっきりキリストのことを指して、「あなたは、永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司です」(詩篇110・4)と証言しています。
かつて祭司たちを立てるのに、神が誓われたことはありません。しかしキリストに対してだけは、「主は、立てた誓いを変えることは決してない。あなたは、永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司である」と誓われたのです。
古い祭司制度のもとでは、彼らは大祭司であっても、自らを悪から守ることのできない罪ある弱い人間でした。しかし後に、神は誓いをもって、ご自分の御子という完全なお方を、永遠の大祭司に任命されたのです。
メルキゼデクには父も母もなく、先祖の記録もありません。また誕生も死もなく、そのいのちは神の子のいのちに似ています。それゆえ、彼は永遠に祭司なのです。
ましてキリストの血は、どれほど確実に私たちの心と生活を変えることでしょう。キリストご自身のささげられた血は、古い規則に縛られる悩みから私たちを解放し、生ける神にお仕えしたい気持ちに駆り立てるのです。それは、一つの罪も欠点もない完全なお方が、聖霊の助けによってご自分を喜んで神にささげ、私たちの罪のために死んでくださったからです。