神を信じていた彼は、王の怒りを恐れず、エジプトの地をあとにしました。わき目もふらず、まるで、いっしょに歩まれる神の姿を見ているかのように前進しました。
私は、いつも主のことを思っています。 主がすぐそばにいてくださるので、 つまずいたり、倒れたりする心配もありません。
あなたの家臣たちはその時、私のところに来てひれ伏し、『どうか今すぐ出て行ってください。イスラエル人は一人残らず連れ出してください』と言うでしょう。そのあと私は出て行きます。」 モーセは怒りに燃え、言うべきことを言うと、宮殿から出て行きました。
長い旅に備えて旅仕度のまま食べなさい。くつをはき、杖を持ったまま急いで食べなさい。以後これは『主の過越』と呼ばれる。
イスラエル人は、主がモーセとアロンに命じたことをみな守りました。
いよいよミデヤンの地を出発するという時、主はモーセに告げました。「エジプトへ帰るのを恐れてはならない。あなたを殺そうとしていた者たちは、みな死んだ。」
わたしの弟子だというので、あなたがたはすべての人に憎まれます。けれども、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。
けれども、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。
そしてあなたがたは、わたしの弟子であるというだけで、すべての人に憎まれます。しかし終わりまで、わたしへの信仰を捨てずに耐え忍ぶ者はみな救われます。
ダビデ王は、イエス様のことをこう言っています。 『主はいつも私と共におられる。 主が私を助け、 神の大きな力が私を支える。
愛は、どんな犠牲をはらっても誠実を尽くし、すべてを信じ、最善を期待し、すべてを耐え忍びます。
ですから私たちは、いま見えるもの、すなわち身の回りの苦しみには目をとめません。むしろ、今は見えない天にある喜びを望み見ているのです。苦しみは、やがて消え去ります。しかし、その喜びは永遠に続くのです。
キリストは、目には見えない神のかたちであり、神がすべてのものをお造りになる前からおられました。
どうか、永遠の王であり、決して死ぬことのない、目には見えない、ただひとりの神に、栄光と誉れがいつまでもありますように。アーメン。
死ぬことのない、ただひとりの方であり、だれも近づくことのできない、まばゆい光の中に住んでおられます。人はだれも神を見たことはありませんし、これからも決して見ることはできません。どうか、このまことの神に、誉れと永遠の権威と支配とが、いつまでもありますように。アーメン。
あなたがたは、初めてキリストを知った時の祝福された日々を、いつまでも忘れないようにしなさい。また、死ぬほどの苦しみに会いながらも、主と共に戦い抜いてきたことを、いつも心にとめていなさい。
信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。
信仰に生きたこの人たちは、神に約束されたものを手にしてから死んだのではありません。しかし彼らは、約束のものが待っているのを望み見て、心から喜びました。この地上がほんとうの故郷ではなく、自分がほんのつかの間、滞在する旅人にすぎないことを自覚していたのです。
そこでアブラハムは、その約束を忍耐して待ち望み、ついに約束のものを手にしました。
彼らは地上で非常な苦しみに会いましたが、最後まで忠実に主に従いました。私たちは、そのように忍耐した人たちを、祝福された人と考えています。ヨブは、苦難の中で主を信じ続けた模範です。私たちは、ヨブの生き方から、主のご計画の結末には必ず祝福が伴うことを知ったのです。主は、恵みとあわれみにあふれたお方です。
あなたがたは、イエス・キリストを見たことがないのに愛しており、いま見ていないのに信じています。そして、天からの、ことばに表せない栄光に満ちた喜びに浸っているのです。