違った教えを広める人がいれば、それは高慢のなせるわざであり、自分の無知をさらけ出す行為だとみなしなさい。つまり、キリストのことばをいい加減に解釈し、ねたみや怒りにかられて議論を果てしなく続け、その結果、非難や争い、不信のとりこになるのです。
自分で金持ちだと思っていても貧しい人がおり、 貧乏だと思っていても富んでいる人がいます。
贈り物をすると約束しながらそれを破る者は、 雨を一滴も降らせずに荒野を横切る雲のようです。
愚か者より始末の悪いのはうぬぼれが強い者です。
考えてもみなさい。仲間割れしながら断食して、 いったいどんな益があるというのか。 そんな断食をしても、 わたしとの関係は少しも良くなるはずがない。
パウロとバルナバは、このことで彼らと激しく対立し、大論争が持ち上がりました。それでとうとう、何人かの信者と共にパウロとバルナバをエルサレムに送り、この問題について使徒や長老たちと協議することになりました。
しかし、これは何だ。ことばの解釈とか、人物批判とか、諸君のばかげたおきてに関する事ばかりではないか。そんなことは、自分たちで始末をつけるがよかろう。私にはどうでもいいことだし、かかわりになりたくもない。」
さてこの町には、長年、魔術を行ってきた人がいました。シモンと言い、持ち前の不思議な力で人々を驚かせていたので、サマリヤ地方でたいへんな影響力を持っていました。メシヤではないかと言われたこともしばしばでした。
互いに心を一つにし、楽しく働きなさい。高ぶってはいけません。偉い人に取り入ろうとせず、かえって、身分の低い人々と喜んで交際しなさい。何でも知っているなどと思い上がってはいけません。
あなたがたの仲間に加わりたいという人がいたら、たとえ信仰の弱い人であっても、心を開いて迎え入れなさい。考えが違うからといって批判してはいけません。
けれども、神の真理に逆らい、不正な道を歩む人には、恐ろしい罰が下ります。神の怒りは、そのような人々に注がれるのです。
たとえ、この点について別の意見の人がいても、私はこのようにしか教えません。すなわち、女が教会で公に預言したり祈ったりする時は、必ずベールを着けなさい。このことは、どこの教会でも同じように考えています。
その席で議論し合い、分裂がますます深刻化していると、私の耳にも伝わってきます。それを信じないわけにはいきません。
自分をだますのはやめなさい。だれか、「自分は世の知者だ」と、もし考えているのなら、そんな考えは捨てて、愚か者になるほうが身のためです。天からの真の知恵を受ける妨げにならないためです。
相変わらず、よちよち歩きもおぼつかないクリスチャンで、それは、あなたがたがねたみ合い、仲間割れをしていることからも明らかです。実際、あなたがたの態度ときたら、まるで主を信じていない人のようです。
奴隷にされ、持ち物を奪われ、利用され、いばられ、顔をたたかれているのに、よく平気でいられますね。
もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。
そうすれば、互いにねたみ合ったり、いがみ合ったりすることはないでしょう。
りっぱな人間である自分が、なにもそこまで身を低くする必要はないと思う人は、自分を偽っているのです。
もっとも中には、神が私をこのように用いてくださるのをねたんで、福音を宣べ伝えている人もいます。彼らは、勇敢な伝道者という名声がほしいのです。しかし、もっと純粋な動機から伝道している人もいます。
何事においても、不平を言ったり、疑ったりしてはいけません。
自己中心であったり、見栄を張ったりしてはいけません。謙遜になって、他の人を自分よりもすぐれた者と考えなさい。
天使への礼拝を拒否する時、「今に罰があたるぞ」などと相手に言わせてはなりません。彼らは、幻を見たと言って、正当性を主張します。この、謙遜だと自任しているが高慢な人々は、実に想像をたくましくしますが、
彼は、神と名のつくものにはことごとく反抗し、また、礼拝の対象をすべて打ちこわします。そして神殿に入って神の座につき、自分こそ神だと宣言します。
彼らは、律法の教師としての名声を得たがるのですが、律法の本質を少しもわかっていないのです。
また、牧師となる者は、クリスチャンになってまだ日の浅い人ではいけません。高慢になる危険性があるからです。高慢は堕落の前ぶれです。
このすばらしい事実を、人々の心にしっかり植えつけなさい。そして、つまらない問題で論争するのを、主の名によって禁じなさい。そのような論争は混乱を招くだけで、百害あって一利なしだからです。
くり返しますが、人々の心を乱し、怒らせるだけの論争をしないように注意しなさい。
人を裏切り、すぐに思い上がり、神を礼拝するよりも自分の快楽に心を奪われます。
しかし、堂々巡りの議論にふけったり、あやしげな神学論争に巻き込まれたりしてはいけません。律法を守ることについての議論や論争も避けなさい。そんなものは何の益にもならず、むしろ害をまき散らします。
愛する皆さん。人のことばにまず耳を傾け、自分はあとから語り、怒るのは最後にしなさい。
偽教師たちはまるで、捕らえられて殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、無分別です。彼らが滅ぼされるのは、目に見えています。
彼らは臆面もなく、やっとの思いで罪の生活から足を洗った人たちを、肉の欲望や誘惑によって、もう一度罪に誘い込もうとしているのです。
しかし、あの偽教師たちときたら、自分にもわからないことを非難し、ののしっています。まるで動物のように、したいほうだいのことをして、自分のたましいを永遠の滅びへと追いやったのです。
彼らはいつも不平を言うだけで、ただ欲望のままに歩んでいます。どんな悪事でも平気で行い、大口をたたき、彼らが少しでも人をほめるとすれば、相手から何かをもらおうという魂胆がある時だけです。
あなたは、『私は金持ちだ。ほしいものは何でも手に入るし、もうこれ以上望むものはない』とうそぶいています。しかし、そんなあなたは、ほんとうにあわれで、みじめで、貧しくて、盲目で、おまけに裸同然であることに気づいていないのです。