その真理とはこうです。神と人間とは、それぞれ別の岸に立っています。そして、人となられたキリスト・イエスがその間に立ち、ご自分のいのちを全人類のために差し出すことによって、両者の橋渡しをされたのです。これこそ、時が至って、神が私たちに示された教えにほかなりません。
イスラエルの王である主、 イスラエルを救う全能の主は、こう言います。 「わたしは初めであり、終わりである。 わたしのほかに神はいない。
これは、イエス・キリストの系図です。イエス・キリストはダビデ王の子孫、さらにさかのぼってアブラハムの子孫です。
『見よ。処女がみごもって、男の子を産む。その子はインマヌエル〔神が私たちと共におられる〕と呼ばれる。』(イザヤ7・14)」
そうやって客を集めても、会場にはまだ空席が目立ちます。
キリストは人間となり、この地上で私たちと共に生活なさいました。彼は恵みと真実のお方でした。私たちは、この方の栄光を目のあたりにしました。それは天の父である神の、ひとり子としての栄光でした。
ただ一人のまことの神であるあなたと、あなたがこの地上にお遣わしになったわたしを知ること、それが永遠のいのちを得る道です。
この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」
神のひとり子、主イエス・キリストに関するものです。この方は、人の子として、ダビデ王の家系にお生まれになりました。
ユダヤ人と外国人との区別はありません。同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、恵みを惜しみなく与えてくださるからです。
では、この問題はどうなるでしょう。偶像に供えた肉を食べてもよいのでしょうか。私たちはみな、偶像など実際には神ではなく、神様はおひとりだけで、ほかにはいないことを知っています。
しかし私たちは、父なる神ただおひとりであることを知っているのです。この神様が万物を創造し、人間をご自分のものとして造られたのです。また私たちは、ただ一人の主、イエス・キリストがおられることを知っています。この方がすべてのものを造り、私たちにいのちを与えてくださるのです。
しかしアブラハムは、天使やモーセのような仲介者を通してではなく、神から直接約束を与えられたのです。
そして、私たちすべての上に立ち、すべての中に宿り、各器官である私たちを貫いて生きておられる、神であり父である方は一つです。
いいですか、私たちの神は主おひとりです。
私は、すべてのいのちの創造者である神と、ポンテオ・ピラトの前で大胆に証言されたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。
またさらにあなたがたは、新しい契約をもたらしたイエスご自身と、復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血に近づいているのです。
また、ご自分を通して神のもとに来る人々を、完全に救うことがおできになります。永遠に生きておられるキリストは、いつも神のそばで、ご自分の血によって彼らの罪が帳消しになるようにとりなしていてくださるのです。
しかし今、キリストは天における祭司として、古い契約に従っている祭司たちより、はるかに重要な任務をゆだねられています。キリストが私たちに伝えてくださる神の新しい契約には、さらにすばらしい約束が含まれているのです。
キリストは、この新しい契約を携えて来られました。それで、神に招かれる人はみな、約束されたすばらしい祝福にいつまでもあずかることができるのです。なぜなら、古い制度のもとで犯した罪の刑罰から救い出すために、キリストは死んでくださったからです。
私の子どもたちよ。私がこう言うのも、あなたがたにいつも罪から離れていてほしいからです。しかし、もし罪を犯したとしても、父なる神の前で弁護してくださるイエス・キリストがおられます。キリストはすべての点で正しく、神のお心に完全にかなった方です。
そして、その燭台の真ん中に、一人の人が立っていました。その方は、「人の子」と呼ばれるイエスのようであり、長い衣をまとって、胸には金の帯を締めていました。