しかし、神に救われた私たちのためのものではありません。それは律法を無視し、神を憎み、神を汚すことばを吐き、父母に逆らい、人殺しをする罪人のためにあるのです。
実の息子が私を殺そうとしているのだぞ。このベニヤミン人は、のろっているだけではないか。放っておきなさい。主がそうさせておられるのだから。
彼の神ニスロクの神殿で礼拝していた時、王子アデラメレクとサルエツェルに殺されました。二人は東トルコのアララテに逃げ、王子エサル・ハドンが新しく王となりました。
すると、主は一人の御使いを遣わして、すべての将校、将軍とともにアッシリヤ軍を全滅させたのです。セナケリブは面目をつぶされ、すごすごと国に引き揚げていきました。そのうえ、自分の国で神の宮に来たところを、実の息子たちに殺害されてしまったのです。
人を殺してはならない。
しかし殺意を持って計画的に人を殺した者は、たとえわたしの祭壇から引きずり降ろしてでも、殺されなければならない。
親をのろう者は死ななければなりません。
殺人者は良心に責められ、地獄へ落ちます。 その人を止めてはいけません。
親のものを横取りして、「何が悪いのか」と とぼけるのは、人殺しと同じです。
親をのろい、悪いことばかりしているくせに、 自分は少しも欠点がないとすましている者がいます。
父親をあざけり、母親を軽蔑するような者は、 からすに目をほじくられ、はげたかの餌になるのです。
祭司も預言者同様、神を敬わない悪党ばかりです。 主は言います。 「わたしは神殿の中でさえ 卑劣なことが行われるのを見た。
ああ、悪にまみれたイスラエルの王ゼデキヤよ。あなたの最後の刑罰の日がきた。」
自分の両親をのろう者は必ず死刑に処せられる。それが当然の報いである。
身内からさえ迫害が起こります。
彼らは人の悪口を言い、神を憎み、横柄で、高慢で、大ぼらを吹き、次々と悪事をたくらみ、親に反抗し続けました。
そういうわけで、全地をアブラハムとその子孫に与えるという神の約束は、アブラハムが律法に従ったからではなく、神は必ず約束を果たしてくださる、と彼が信じたからこそ与えられたことは明らかです。
律法が与えられてから、すべての人は、自分がいかに神のおきてに従えない存在か、よくわかるようになりました。しかし、私たちは、自分の罪深さを知れば知るほど、赦してくださる神の満ちあふれる恵みが、いっそうわかるようになるのです。
罪は、二度とあなたがたを支配しません。なぜなら、あなたがたはもう律法に束縛されてはおらず、恵みの中にあって、自由の身となっているからです。
では、そもそも律法は何のために与えられたのでしょうか。それは、神の約束につけ加えられたものであり、それに違反することがどんなに罪深いことかを人々に示すためです。ただし、この律法の有効期間は、その約束の指し示す「子」、すなわち、キリストが来られる時まででした。さらに次のような点も指摘できます。神様は律法を、天使たちを通してモーセにお与えになり、モーセがそれを民に告げ知らせたのです。
しかし、本来聖霊に導かれているあなたがたは、もう自分を律法に従わせる必要はありません。
ねたみ、人殺し、泥酔、遊興、そのような種類のものです。前にも言いましたが、もう一度言いましょう。そのような生活を続ける者は、一人として神の国を相続できません。
柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。
『親を侮辱する者はのろわれる。』民はみな、『アーメン』と答えなさい。
時が来れば、いよいよこの反キリストが現れることになりますが、主イエスが来られ、御口の息と輝きによって、彼を滅ぼしてしまわれます。
愚かな理論や作り話の議論で、むだな時間を費やしてはなりません。むしろ、時間と労力とを有効に使って、いつも霊的に高められるよう自分を訓練しなさい。
テモテよ。神から託された任務を完全に果たしなさい。知識を鼻にかけ、無知をさらけ出しているような人と、無益な議論にふけることがないよう気をつけなさい。
人々を憎しみの渦に巻き込むような、俗悪で無益な議論を避けなさい。
自分だけを愛し、また、お金がすべてだと考える風潮がはびこります。その時人々は、高慢な者、大言壮語する者、神をあざける者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、神を恐れない者になり、
こう言うのは、真理に従わない人が大ぜいいるからです。特に、「クリスチャンはみな、割礼を受けるべきだ」と主張する者たちは、その代表的な例だと言えます。これはまた、なんとばかげた議論でしょう。彼らは人の目をくらませて、真理を見いだすのを阻むのです。
そういう者たちは、口先では神を知っていると言うのですが、行いを見れば、そのうそは一目瞭然です。心は腐れきって不従順で、良い行いにふさわしくない者です。
牧師として選ぶ人は、正しい生活を送っていて、評判の良い人でなければなりません。すなわち、一人の妻の夫であり、子どもも、主を愛するクリスチャンでなければなりません。子どもが親に反抗的だとか、乱暴者だとか、悪いうわさのある人は避けなさい。
以前の私たちも、分別の足りない不従順な者であり、人に迷わされ、さまざまな快楽や欲望のとりこになっていました。心は悪意とねたみの固まりで、憎んだり憎まれたりしながら生活していました。
売春婦ラハブは、神とその力とを信じていたので、イスラエルの偵察隊を自分の家にかくまいました。その信仰によって、彼女は、神への服従を拒んだエリコの住民が滅ぼされた時に救い出されたのです。
また、不品行に走ったり、エサウのように神に無関心にならないよう注意しなさい。エサウは、ただ一度の食事のために、神の祝福のしるしである長子の権利を売りました。
キリストは、信じる者にとって何よりも尊い方ですが、キリストを拒む者にとっては、「つまずきの石、妨げの岩」となりました。「家を建てる者たちの捨てた石が、なくてはならない土台石となった」(詩篇118・22)とあるとおりです。
これらの霊とは、昔のノアの時代の者たちを指します。彼らはノアが箱舟を造っている間、神が忍耐して待っておられたにもかかわらず、神のことばを拒否しました。結局、わずか八人だけが箱舟の中で、水を通って救われたのです。
正しい人がかろうじて救われるのであれば、神を信じない人々は、いったいどんなことになるのでしょう。
主は全世界の人を自分の前に立たせて、正当な刑罰を宣告される。その時、彼らの神に対する恐るべき反逆行為の数々と、神に刃向かうことばのいっさいが明るみに出される」と預言しています。
しかし、わたしに従うのをやめるような臆病者、不忠実な者、堕落した者、人殺し、不道徳な者、魔術を行う者、偶像礼拝者、うそをつく者――このような者たちの行き着く先は、火と硫黄が燃えさかる池です。これが第二の死なのです。」
神から離れた者、魔術師、不道徳な者、人殺し、偶像崇拝者、好んで偽りを行う者は、都の外に出されます。