ですから、私たちが不純な動機や目的からではなく、神への信仰に動かされて伝道したことを確認してほしいのです。
モーセは激しく怒り、主に願いました。「あの者たちのいけにえを受け入れないでください。これまで私は、彼らのろば一頭さえ取り上げたこともなく、彼らを傷つけたこともないのに、あんな言いがかりをつけてくるのです。」
いつものとおり、モーセの書と預言者の書からの朗読がすむと、会堂の管理者たちが彼らに言いました。「二人の方。よろしければ、何かお話ししていただけますか。」
キプロス島出身で、レビ人のヨセフもその一人です。彼はバルナバ〔慰めの子〕と呼ばれていましたが、
彼らは、決して神から遣わされた者ではありません。「詐欺師」です。キリストの使徒だと思い込ませるのです。
それは、私たちのように神から遣わされて、真心から語る者、キリストの力によって神の前で語る者だけです。私たちは、多くの人がするように神のことばをつごうよく曲げて、売り歩くようなことはしません。
信じさせるために、あれこれたくらむようなまねはしません。だましたりしたくないのです。書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることもしません。そのような恥ずかしい方法は用いません。語る時には、神の前に立って真実を語ります。私たちを知っている人はみな、このことを認めてくれるはずです。
私たちは、自分のことを宣伝しているのではありません。主であるキリスト・イエスを宣べ伝えているのです。私たちはただ、イエスが私たちのために成し遂げてくださったことを知ったので、あなたがたに仕える者となっただけです。
人に尊敬されようと軽蔑されようと、あるいは非難されようと賞賛されようと、主への忠誠に変わりはありません。人からはうそつきと呼ばれようと、私たちは正直です。
どうか、もう一度心を開いてください。だれ一人、私たちから害を受けた人はいないはずです。また、惑わされた人もいません。私たちは、だましたことも、人をうまく利用したこともありません。
父親が子どもをさとすように一人一人に勧め、また、励ましてきました。それを忘れてはいないでしょう。
私たちが神に召されたのは、汚れた思いや情欲のとりこになったりするためではなく、きよく清潔な生活を送るためです。
そこで神は、彼らがだまされるままに放っておかれるのです。
主イエス・キリストの力と再臨(キリストが再び地上に来られること)について話してきましたが、それは、私たちがうまく考え出した作り話ではありません。私はこの目で、キリストの輝きと栄光をはっきり見たのです。
今、私は主の前に、そして主が油を注がれた(神にきよめ分けられ、任命を受けた)王の前に立っている。さあ、言い分があるなら言ってくれ。私がだれかの牛やろばを盗んだりしただろうか。みんなをだましたり、苦しめたりしたことがあるか。わいろを取ったことがあるか。もしそんな事実があったら、言ってほしい。何か間違いを犯したことがあるなら償いたいのだ。」