「最初に来るのは、ツァドクの息子アヒマアツのようです。」 「あれはいいやつだ。悪い知らせなど持って来るはずがない。」
もう一人の男が走って来るのを、見張りは確認しました。「もう一人、やってまいります。」彼は大声で叫びました。 「うん、それも吉報に違いない。」王はうなずきました。
そのことばが終わらないうちに、祭司エブヤタルの子ヨナタンが駆け込んで来たので、アドニヤは言いました。「入りなさい。おまえは勇敢な者だから、良い知らせを持って来たに違いない。」
見張りは大声を張り上げました。「第二の使者も帰って来ません。ところで、あれはエフーに違いありません。狂暴に馬を走らせています。」
使用人がよく言いつけを聞いてくれるのは、 真夏の涼しい日のように気持ちのよいものです。
遠くの人からうれしい知らせをもらうのは、 のどが渇いた時に冷たい水を飲むようなものです。
イスラエルの神が王座についたという、 平和と救いの良い知らせを伝える者の足は、 山の上を巡り、なんと美しいことでしょう。
また、神に遣わされなければ、どうして人々のところへ出かけて教えることができるでしょうか。聖書に、「神との平和を宣べ伝え、良い知らせをもたらす人の足は、なんとうるわしいことか」(イザヤ52・7)とあるのは、まさにこのことです。