ダビデは苦しみました。さらに悪いことに、子どもたちの身を案じて悲しむあまり、部下の中からダビデを殺そうとする動きさえ出始めたのです。しかし、ダビデは主から力づけられました。
恐れていたとおりです。手を打たなければなりません。ヤコブは気が動転しながらも策を練りました。自分たちの一行を、家畜の群れやらくだも全部、二つに分けました。
ご承知のように、お父君とその部下たちはりっぱな勇士です。今は、子熊を奪われた母熊のように気が立っておいででしょう。そればかりか、戦いに慣れておられるお父君は、兵卒とともに夜を過ごしたりはなさいますまい。
ところが、山の上にいるエリシャのそばまで来ると、彼女はひれ伏して、彼の足にすがりつきました。ゲハジが引き離そうとすると、預言者は言いました。「そのままにさせておきなさい。何か大きな悩みがあるに違いない。それが何であるか、主はまだお告げになっていないのだ。」
そのため神に殺されるなら、それでもいい。 たとえ殺されても、私はやめない。
私は失意に沈んでいたころ、 「人々は私に良くなると言ってくれるが、 それはうそだ」と思い悩んでいました。
あなたは必ず私の祈りに答えて、力を与え、 励ましてくださいます。
主は、安心して身を寄せることのできるとりでです。 誰ひとり、このとりでに入って来て、 私を殺すことはできません。 主は、身を隠すことができる険しい山であり、 私の救い主です。 だれも近づくことのできない岩、安全を守る塔、 また私の盾です。
苦しみの中で、私は主の助けを叫び求めました。 その声を、主は天から聞いてくださいました。 叫びは届いたのです。
かかえている問題は、 だんだん手に負えなくなるのです。 ああ、すべての苦しみから引き離してください。
いらだってはいけません。主を待ち望みなさい。 主は必ず来てくださり、あなたを救ってくださいます。 勇気を出しなさい。主を待ち望みなさい。 主はきっとあなたを救ってくださいます。
さあ、元気を出しなさい。 もし、主に信頼しているなら、 雄々しく立ち上がりなさい。
しかし、私のたましいよ、 気落ちするな。動転するな。 神に期待せよ。 神がすばらしいことをしてくださり、 私はきっと賛嘆の声を上げるのだから。 このお方こそ、私の命綱、私の神。
神のさかまく大波が私の頭上を越え、 悲しみの洪水が、とどろく大滝のように 降りかかってきます。
私は黙って、神からの救いを待ちます。 救うことができるのは神だけですから。
しかし、私はじっと黙って、神の救いを待ちます。 救うことができるのは神だけだからです。
ああ神よ、不正をする残忍な者どもの手から、 逃れさせてください。
ああ主よ、あなただけが頼りです。 私は幼いころからあなたに信頼してきました。
モーセは主に願いました。「どうしたらよいのでしょう。この人たちは、今にも私に石を投げつけて殺しかねない有様です。」
主は絶対安全なとりで、 正しい人はその中に逃げ込みます。
しかし主は、貧しい者にとっては、 嵐を避ける隠れ家、暑さをしのぐ木陰、 土塀をくずす激しい雨のように 非情な人間からかくまう避け所です。
主よ。私の力、私の要塞、悩みの日の私の隠れ家よ。 世界中の民がみもとに来て、こう言うでしょう。 「私たちの先祖はほんとうに愚かでした。 少しも価値のない偶像を拝んでいたのです。
「苦しくてどうしようもない時、 私が主に向かって叫ぶと、 主は答えてくださいました。 死の淵から叫ぶと、 主よ、あなたは聞いてくださいました。
ところが人々は、二人の言うことを聞こうともせず、かえって石で打ち殺そうとしました。その時、神の栄光が現れ、声が響きました。「モーセよ、この者たちはいつまでわたしを軽んじるのか。あれだけの奇跡を見ても、まだわたしを信じないのか。
押し寄せた群衆は、イエスを取り囲み、口々に叫びました。 「ダビデ王の子、ばんざーい!」 「主をほめたたえよ!」 「このお方こそ神の人だ!」 「主よ。このお方に祝福を!」
「では、キリストと呼ばれるあのイエスは、どうするのだ。」「十字架につけろ!」
話がここまで来ると、ユダヤ人たちは怒りを抑えることができず、手に手に石をつかみ、今にもイエスを打ち殺さんばかりになりました。しかし、イエスはすばやく身を避け、急いで宮を抜け出しました。
神はアブラハムに、「あなたに一人の男の子を授けよう。その子から多くの子孫が生まれ、偉大な民族となる」(創世15・5)と言われました。この時アブラハムは、そんな約束はとうてい実現するとは思えなかったにもかかわらず、神を信じました。
アブラハムは少しも疑うことなく信じ、そのことがまだ実現しないうちから、その祝福のゆえに神を賛美しました。
こんなにすばらしい恵みに対して、いったい何と言ったらよいでしょう。神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。
私たちが大きな苦しみに会うのも、あなたがたが神の慰めと救いを受けるためです。現に神様は、苦しんでいる私たちを慰めてくださいました。それは、あなたがたのためでもあるのです。つまり、あなたがたが私たちと同じような苦しい境遇に立たされた時、神の慰めがどれほどやさしさに満ちたものであるかを知ることができるのです。神様は必ず、苦しみに耐え抜く力を与えてくださいます。
私たちは四方八方から苦しめられ、圧迫されますが、押しつぶされ、打ちのめされることはありません。「どうしてこんなことが」と途方にくれることがあっても、行きづまることはありません。
マケドニヤに着いた時、私たちには少しの安らぎもありませんでした。外には四方八方に困難が立ちふさがり、心は恐れと不安でいっぱいでした。
ですから、私たちは確信をもって、こう答えることができます。「主は私を助けてくださいます。だから何もこわくありません。人間が、私にどんな手出しができましょう。」(詩篇118・6)
「何ですと? もっと気をつけてものを言ってほしいな。でないと、腹を立てた連中が、あなたがたを皆殺しにしかねませんよ。」
イスラエル軍は主の前で夕方まで泣き続け、再び伺いを立てました。「私たちは、同胞ベニヤミンとまだ戦うべきでしょうか。」 「戦いなさい」という主の答えが返ってきました。イスラエル軍は奮い立ち、翌日も、同じ場所で戦おうと出陣しました。
ハンナは悲しみのあまり、主に祈りながら、激しくむせび泣きました。
王子ヨナタンもダビデを捜していましたが、やっとホレシュで再会し、神は真実なお方だからと、ダビデを力づけました。
サムエルは尋ねました。「どうして私を呼び出したりして、煩わすのか。」 「私はもう、途方にくれているのです。ペリシテ人が攻めて来るのに、主は私をお見捨てになり、預言者によっても、夢によっても答えてくださいません。思いあぐねて、あなたをお呼びしたのです。」