今、私はあなたがたのところに行こうと、三度目の計画を立てています。今度も、あなたがたには負担をかけないつもりです。私がほしいのはお金ではなく、あなたがた自身だからです。いずれにしても、あなたがたは私の子どもです。小さな子どもは親を食べさせる必要はありません。その逆です。親が子どもを食べさせるのです。
神を信じる人はいのちの実のなる木を育て、 知恵ある人は人のたましいを破滅から救います。
正しい人は孫にまで遺産を残しますが、 罪人の財産は、 最後には神を恐れる人のものになります。
家や財産なら父親でも息子に残すことができます。 賢い妻は、主に与えていただくしかありません。
「人の子よ、羊飼いであるイスラエルの指導者に預言せよ。彼らに言え。」神である主は語ります。「羊の世話はそっちのけで、私腹を肥やすことしか考えていない羊飼いは災いだ。羊飼いなら羊を養うべきではないか。
私はお金やぜいたくな衣服をほしいと思ったことなど、ただの一度もありません。
自分のことばかり考えてはいけません。他の人を思いやり、何がその人にとって最善か、よく考えなさい。
これは私の生活の原則でもあり、何をするにも、私はすべての人に喜んでもらおうと努めています。だから、自分のしたいことや、つごうの良いことをするのでなく、人々が救われるのに最善のことをするのです。
ほんとうに空腹な人は、家で食べなさい。それは、いっしょに集まりながら、自分の身に罰を受けないためです。そのほかのことは、そちらに行ってから話しましょう。
私は、まずマケドニヤに行ってから、あなたがたを訪問する予定です。マケドニヤには、ちょっと立ち寄るだけです。
しかし、もし主のお許しがあれば、私はすぐにでも行くつもりです。そうすれば、その高慢な人たちが、ただ大きなことを言っているだけか、それとも、ほんとうに神の力を持っているのかがわかるでしょう。
あなたがたは、神のことばを伝えてくれたほかの人たちには、そうした必需品を提供しています。それは当然のことです。すると、なおさら私たちは、それらを求める権利があるはずではありませんか。けれども私たちは、一度もこの権利を持ち出したことはありません。かえって、働いて自活し、援助を受けませんでした。どんな報酬も求めなかった理由は、キリストの福音を妨げるのではないかと心配したからです。
このような状況で、私の受ける報酬とはどんなものでしょう。だれにも負担をかけず、自分の権利を少しも主張せずに、福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び、これこそ私の報酬なのです。
これにはまた、すばらしい利点があります。だれからも給料をもらわないということは、だれからも自由だということです。けれども私は、一人でも多くの人をキリストに導くために、自ら進んで、また喜んで、すべての人の奴隷となりました。
あなたがたの私に対する理解と信頼を確信したので、次のような計画を立てました。マケドニヤへ向かう途中、まずコリントであなたがたに会い、また帰りにも立ち寄るという計画です。そうすれば、あなたがたは二倍の祝福を受けることができ、私もあなたがたに送られてユダヤへ行けるからです。
私がほかのどの教会の場合とも違って、あなたがたにはしなかったことが一つだけあります。それは、負担をかけなかったことです。食べ物や住む場所のことで、何一つ世話をかけませんでした。この不公平については、どうか赦してください。
ああ、私の子どもたち。私はどんなに心配していることか。あなたがたがキリストに完全に支配される時をひたすら待ちながら、生まれて来る子どもを待つ母親のような苦しみを、もう一度味わっているのです。
愛する兄弟(信仰を同じくする者)たち。私はあなたがたに、ぜひ会いたいと願っています。あなたがたは私の喜びであり、私の働きが結んだ実なのですから。愛する皆さん。どうかいつまでも、主に対して真実であってください。
贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。
父親が子どもをさとすように一人一人に勧め、また、励ましてきました。それを忘れてはいないでしょう。
心からあなたがたを愛していた私たちは、ただ神の教えを伝えるだけでなく、いのちさえ喜んで与えたいと思うほどでした。それほどまでに愛したのです。