キリストが禁じておられること以外、私には、何でもする自由があります。しかしその中には、自分のためにならないこともあります。たとえ、してよいことであっても、それに捕らえられたら最後、やめようとしても簡単にやめられないことには手を出しません。
性行為後は、男も女も体を洗わなければならない。二人とも翌日の夕方まで、汚れた者とみなされる。
ユダヤ人の指導者たちはひどく腹を立て、その男を責めました。「安息日に労働するとはけしからん。床を上げて運んだりするのは違反だ!」
本来、律法は霊的なものであり、問題はむしろ罪ある私にあります。私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているのです。
では、この問題はどうなるでしょう。偶像に供えた肉を食べてもよいのでしょうか。私たちはみな、偶像など実際には神ではなく、神様はおひとりだけで、ほかにはいないことを知っています。
あなたがたは、神のことばを伝えてくれたほかの人たちには、そうした必需品を提供しています。それは当然のことです。すると、なおさら私たちは、それらを求める権利があるはずではありませんか。けれども私たちは、一度もこの権利を持ち出したことはありません。かえって、働いて自活し、援助を受けませんでした。どんな報酬も求めなかった理由は、キリストの福音を妨げるのではないかと心配したからです。
自分の体をむち打ってきびしく鍛練し、なすべきことができるよう訓練しています。そうでないと、ほかの人たちを競技に参加させておきながら、自分は失格者として退場を命じられるかもしれないからです。
私たちにそれを要求する権利がなかったからではなく、自分の生活は自分で支えるという模範を、身をもって示したかったのです。
こういう者たちが、教会での愛の会食に加われば大きな汚点を残します。彼らは、他人のことなどおかまいなしに大声で笑ったり、ふざけたりしながら、むさぼり食うのです。まるで、からからに乾ききった大地の上を、一滴の雨も降らせずに通り過ぎる雲のようです。大いに期待させるだけで、何の役にも立ちません。また、彼らは収穫の時期になっても、実一つつけない木に似ています。その状態はただの死ではなく、二重の死を意味します。彼らは根こそぎ引き抜かれて、焼かれるしかないのですから。