良心にやましいところはさらさらありませんが、だからといって、安心しきっているわけでもありません。調べた上で判定をお下しになるのは、主ご自身だからです。
あなたの言うような純粋で完全な人間が、 この地上にいるだろうか。
人にすぎない者が、神の前に立ち、 自分は正しいと主張できようか。 胸を張って、自分は潔白だと言いきれる者は、 この世界にただの一人もいない。
自分が絶対に罪人でないことを、 私は何度でもくり返して言う。 私は生涯、良心に責められることがない。
「私は何の値打ちもない者です。 どうして答えることができましょう。 口に手をあてて黙り込むだけです。
しかし、私は正しいだろうか。 そうでないことは自分がよく知っている。 たとえ一点の非の打ちどころもないとしても、 神は私を悪い者とする。
主がいつまでも私たちの罪を 心に留められるとしたら、 この祈りも聞いてはいただけないでしょう。 しかし、恐れ多いことですが、 あなたは赦してくださるお方です。
私を裁判にかけないでください。 あなたほど完全なお方はいないのですから。
しかし人は、心にひそむ罪を どうして知ることができましょう。 どうか、隠れた罪からきよめてください。
主は、私がつまずいたり、倒れたりしないよう 守ってくださるので、 私は人々の前で、主をほめたたえます。
神は完全に公正な裁判官となって、 判決を下されます。 天も、神の正しさを証言します。
どんな行いでも、 もっともらしい理由をつければ正しく見えますが、 神はどんなつもりでそうしたかを見ます。
正しい裁判をしてほしかったら、 裁判官に取り入ろうとせず、主に任せなさい。
イエスはもう一度言われました。「ヨハネの子シモン。ほんとうにわたしを愛していますか。」三度こんな尋ね方をされたので、ペテロは心に痛みを感じながら答えました。「主よ。いっさいをご存じなのはあなたです。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」「それでは、わたしの羊を養いなさい。
パウロは議会の面々をじっと見つめ、口を開きました。「皆さん。私はいつでも神の前で、少しも良心に恥じない生活を送ってまいりました。」
では私の場合はどうでしょう。良い管理者だったでしょうか。この点に関してあなたがたがどう考えようと、また、ほかの人がどう思おうと、私は少しも気にしません。この件については、私は自分の判断さえ信用していないのです。
ですから、主がまだここにお帰りにならないうちから、何についても性急に結論を下すことがないように注意しなさい。主が来られる時、すべては明るみに出されます。一人一人の心の奥底までが見通され、ありのままの姿がはっきり見えるようになります。その時、一人一人が、ふさわしい賞賛を神から受けるのです。
私たちは、どんな場合でも、自分の知恵に頼らず、助けてくださる主に信頼し、きよさと誠実さをもって行動してきました。特にあなたがたに対しては、そのようにふるまってきました。胸を張ってそう言うことができます。
なぜなら、やがて私たちはみな、キリストの前でさばきを受けなければならず、全生活がさらけ出されることになるからです。善であれ悪であれ、地上の体でいる時の行いに応じて、私たちはそれぞれ、ふさわしい報いを受けるのです。