しかし、この世の支配者たちは、このことを理解しませんでした。もし理解していたら、まさか栄光の主を十字架につけるようなことはしなかったでしょう。
そして、こう祈られました。「ああ、天地の主である父よ。自分を賢いとうぬぼれる者たちには、あなたの真理を隠し、それを小さな子どもたちに示してくださって、ありがとうございます。
また、いばらの生い茂った地というのは、神のことばを聞いても、生活の苦労や金銭欲などがそれをふさいでしまい、しだいに神から離れていく人のことです。
その時、イエスはこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分たちが何をしているのかわかっていないのです。」兵士たちがさいころを投げて、イエスの着物を分け合うのを、
父をも、わたしをも知らない人々のやりそうなことです。
われわれユダヤ人の議員やパリサイ人の中で、あの男をメシヤだなどと信じている者は一人もいない。
パリサイ人たちは言いました。「では、そのお父上とやらはどこにいるのか。」「わたしのことを知らないから、父のこともわからないのです。わたしを知っていたら、父をも知っていたでしょうに。」
エルサレムにいるユダヤ人とその指導者たちは、イエスを処刑することで、皮肉にも、預言を実現させたのです。彼らは安息日ごとに預言者のことばが読まれるのを聞きながら、イエスこそ、その預言されたお方であることを認めようとしませんでした。
ステパノは、答弁を始めました。「お聞きください、皆さん。先祖アブラハムがまだメソポタミヤに住んでいたころ、栄光に輝く神様が彼に現れました。
こうした知者、学者、この世の論客たちについては、何と言われているでしょう。神様は、彼らを愚か者とし、彼らの知恵など無用の長物としました。
とはいえ、成長したクリスチャンの間では、私はすぐれた知恵のことばを語ります。しかしそれは、この地上の知恵ではなく、また滅ぶべき運命にある、この世の支配者の気に入る知恵でもありません。
覆いがかけられたのは、モーセの顔だけではありません。イスラエルの人々の霊的理解力も覆われたのです。今でも、聖書が朗読される時、ユダヤ人の思いには、厚い覆いがかかっているように思えます。というのは、聖書のほんとうの意味を知ることも、理解することもできないからです。この覆いは、キリストを信じて初めて取り除かれるのです。
どうか、主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、あなたがたに知恵を与えて、キリストがどのようなお方か、何をしてくださったかを、正しく、はっきりと理解させてくださいますように。
彼らの閉ざされた心の中は真っ暗です。神に対して心を閉ざしているので、神のいのちから遠く離れています。
以前の私は、キリストの名をあざけり、主を信じる者たちを追い回し、あらゆる方法で迫害しました。しかし主は、そんな私さえ、心にかけてくださったのです。その時はまだ、キリストを知らず、自分のしていることの恐ろしさもわからなかったからです。
愛する皆さん。人をえこひいきし、相手が金持ちか貧しいかによって態度を変えていながら、どうして臆面もなく、「私は主イエス・キリストを信じています」などと言えるでしょう。